辛酸なめ子「お金入門」 23.ギャラが発生しない大人のお稽古の醍醐味

まさかこの年になって演劇の舞台に立つことになるとは……。大変なことを引き受けてしまったと、本番直前の紀伊國屋ホールのステージと客席を見て緊張感が押し寄せました。
最初に文士劇の企画について聞いたのは、日本文藝家協会の評議委員会に参加したときだったと記憶しています。作家の有志が集まって演劇をする企画で、約100年前、菊池寛先生の時代から行われていたそうです。このたび日本文藝家協会創立百周年を記念して開催されることに。最初「文士劇」という単語を聞いたとき、和服姿の文士たちが温泉旅館のステージなどで行う余興のようなものだをイメージしていました。それが、話を聞くと会場は、小劇場演劇界では聖地とされる紀伊國屋ホール。そんな壮大な企画は、文士と言えない自分には無縁だと思い、そのときは聞き流していました。しかし年末に、日本文藝家協会の文士劇実行委員長から、出演依頼のメールが。まず最初に思ったのは自分にはとてもできない、ということでしたが、大人になって新しいことに挑戦できる貴重な機会だとも思えてきて、セリフが少ない役ならば、とお受けすることに。文士劇の出演者は、会報の告知を見て応募してきた方と、理事などの推薦で声をかけられた人で構成されるようです。
稽古が始まったのは昨年12月。最初はウォーミングアップで輪になってお互いのニックネームを呼びあったり、簡単なジェスチャーゲームをしたり、体を動かすことから始まりました。文学座の演出家、五戸真理枝さんは柔和な笑顔の優しい女性。自分の体の感覚を広げて声を遠くに届ける方法、役の気持ちになってセリフを言う方法など、演技の基礎も教えていただきました。今回の演目「風と共に去りぬ」の台本はすでにできていたのですが、最初は感情を込めずに朗読するところからスタート。そして稽古が始まってしばらく経ってから、役名の発表がありました。主役のスカーレット・オハラとレット・バトラーは、セリフが多いので複数の作家が演じることになります。それでも主演なので結構なセリフの分量。私は演技の能力もないし、声も小さいし、記憶力も衰えているので、できるだけセリフが少ない役を希望していたのですが、なんとスカーレットの1人に抜擢されてしまいました。とても無理だと思ったのですが、場面を減らしてもらうことでお引き受けさせていただくことに。私以外の3人のスカーレット(蝉谷めぐ実さん、綿矢りささん、村山由佳さん)はそれぞれ過去に演技経験もあり、ビジュアルも演技力もレベルが高くて、焦燥感に駆られました。
舞台に関わるのははじめてのこと。このお金の連載をしていることもあり、心のどこかで気になっていたのは出演料です。稽古のあと、近隣の飲食店に流れることになったので、そこで盛岡文士劇によく出られている井沢元彦さんにそれとなく聞いてみました。
「あの、今回の出演料って……」すると、井沢さんは「もちろんボランティアだよ。もらえると思ってた? あ、出ないとわかったからやめるなんて言わないでね」とのことで、なんとノーギャラ確定。作家の本業ではないしプロじゃないのでお金はいただかないという暗黙の了解があるのでしょうか。
ノーギャラとわかったので、気持ちを切り替えて臨もうと思いました。ちなみに関西出身の百戦錬磨のファッション誌編集長の男性からたまたま電話があり、舞台について聞かれてノーギャラだと伝えると、「えーっ奴隷やん!」と驚かれました。奇遇にも、スカーレット役以外に序盤に出てくる奴隷役も演じました。その編集長に「出演できるのが名誉なことと考えている人も結構いるようです」と言うと、「名誉か。言葉ってのは便利なものやね。それで人生まで狂わす人もおるけどね」と、意味深なコメント。「何、その舞台に出たらカンヌに行ったみたいに認めてもらえるわけ?」「特にそういうことはないと思いますが……。私は新しい習い事をはじめたと思うことにしました」「そうやね。月謝タダやったと思うしかないな」
ちなみに昨年に、インスタで大手芸能事務所の、旅行番組レポーター募集という投稿を見かけて、募集する年齢層が幅広いようだったので興味本位で応募したことがありました。第1次は写真と書類審査のみだったので、数週間後に合格の知らせと賞状が届きました。そこには「第2次オーディションのご案内」も同封されていて、台詞テスト、歌唱テスト、質疑応答があると書かれていました。冷やかしで応募したものの、演技も歌唱もできないので辞退する事を伝えたのですが、もし第2次に受かっていたらそのまま所属の芸能スクールに入る流れになっていたと思われます。そのスクールの入所費用は約30万円で月謝は約2万円。それでも実際に仕事がもらえるとは限りません。そう考えると最初から舞台が用意されていて出演も約束されていて、演技のワークショップも受けられるなんて、恵まれている気がしてきました。ちなみにスクールには入らなかったのですが、今回の舞台のために、滑舌を良くする方法を教えてくれる話し方のレッスンを自腹で受けたので、それもちょっとした持ち出しになりました。
それでも舞台という芸術ができあがっていくのを体験できたのは、お金に換算できない貴重な体験だったとも思います。普段は取材活動以外はパソコンの前でひとりで仕事しているので、稽古に何十回も通い、たくさんの人々と一緒に練習や対話や意見交換などを重ねて一つの舞台を作り上げる、というのは新鮮でした。演者だけでは何もできず、衣装、音響、照明、大道具といったスタッフの方々の協力によって、直前まで調整を繰り返しながら、本番を目指します。共同作業を体感し、人間関係についても勉強になりました。楽しいことだけでなく大変なこともありましたが……。
舞台は生き物で、本番の日まで日々変化し続けます。直前にこの歌を覚えてきて、と言われることもあり、さまざまな段取り、立ち位置などを忘れないようにしなければなりません。稽古の終盤までは、出演者の皆さんはだいたい台本通りにやっていたのですが、本番が近付くにつれて、急に次々とアドリブをぶっ込みだしました。言葉のプロとして、発信しなければ、個性を出さなければ、という使命感にかられたのでしょうか。レット・バトラー役の島田雅彦さんが白いスーツで登場して「カーネル・サンダースじゃないですよ」と言ってみたり、それまで淡々と演じていたもう1人のレット・バトラー役の三田誠広さんが、スカーレット役の村山さんはスカーレットと同じく結婚を3回していると急にアドリブで入れたり、村上政彦さんがポーカーをしているシーンで芥川賞に5回落ちたことをぼやいたり、マクレー翁役の岳真也さんまで政権批判のアドリブを入れたり、スリリングな展開に。私も満を持して、スカーレットがレットにお金を借りにいく場面で「どうしてもお金がいるのよ。ノーギャラだし!」と入れさせていただきました。当日のお客さんの反応はまずまずでした。チケット代が8000円もするので、出演者の作家たちが高額なギャラをもらっていると思われないように、という思いもありました。
今回の公演は、金曜日がメディア関係者を呼んだリハーサルを兼ねたゲネプロで、本公演は土曜日の昼夜2回、そして日曜日の1回。出演者のほとんどが素人の中高年なのに4公演連続するという無謀ともいえる試みです。それでも風邪をひく人もおらず、70代後半の人を含めて全員無事に完走できました。お客さんからエネルギーをもらった、というのもありそうです。演出家、演出助手、出演者、美術、照明、音響、衣装、ヘアメイク、舞台監督、そしてお客さんの全員で作り上げるのが舞台なのです。お客さんは優しくてダンスのシーンで手拍子までしてくれて感動。上品な方々が多く、きっと8000円のチケット代も負担になっていないと思いたいです。カーテンコールには他では得られないようなカタルシスがありました。
ところで今回は日本文藝家協会の百周年記念の大掛かりな企画で、舞台の完成度を高めるため、演出や衣装やヘアメイク、音響などを業界トップの方々に依頼したそうです。そして小劇場演劇界の聖地と呼ばれる紀伊國屋ホールを約1週間借り切ったので、制作費は膨大になり、なんとチケットが完売したのに赤字だそうです。ノーギャラどうこうと言っている場合ではありませんでした。世の劇団員の方々はチケット代の収益で生活できるのか心配になりました。ちなみに今回盛岡から参加した脚本家の道又力さんは、毎日稽古の後に飲んでいてそれでギャラはほぼ相殺されたそうです。演劇の世界には、昔ほどではないですが、今も打ち上げの風習があるので、連日飲んでいたらさらに経済的に負担が。確かに日々の稽古で生まれた仲間意識や絆には特別なものがあり、本番を終えたらそれが途切れてしまうのは寂しいです。毎晩親交を深めている演劇人は、基本人間が大好きで寂しがり屋なのかもしれません。演劇の世界の魅力はハマったら抜けられない沼のようです。
舞台という芸術を体感できた以外にも、得られたことがいくつもありました。
肉体的な面では、記憶力の向上です。何ページにも及ぶセリフなんてとても覚えられない、と尻込みしていましたが、どうしても必要に迫られたら覚えるもの。今までできない、と自分で決めつけて、脳を甘やかしてさらに記憶力が低下してしまっていたようです。適度な負荷をかけないと脳細胞は活性化しません。毎日、ドライヤーで髪を乾かしながら発声練習とセリフの暗唱に励み、記憶に刻みました。おかげさまで滑舌も少し良くなりました。発声練習はリフトアップ効果もありそうで、これからも続けたいです。
前半の、奴隷と貴婦人の着物の二枚重ねの衣装と、後半のペチコートが巨大なスカーレットの衣装は、一旦着たらトイレに行けません。そのため、トイレに頻繁に行かないトレーニングにもなりました。トイレに行きすぎると逆に頻尿になってしまうと聞いたことがあります。ちょっと行きたいな、くらいだとまだ我慢できる、とわかって膀胱も鍛えられました。記憶力や頻尿対策など、舞台は老化防止になりそうです。老後にこそおすすめです。
今回は作家の先生方が出演されていたので、稽古や舞台の合間に、さまざまな雑学や教養を身につけることができました。「クラーク・ゲーブルはグレース・ケリーに自分を諦めさせるため、目の前で入れ歯を外してみせた」「スカーレットの妹、スエレンの名前はスーとエレンが合体したもの」など、日々男性作家方の教養合戦が繰り広げられていて刺激を受けました。
舞台が始まると出版社や出演者のお友達からたくさんの差し入れが届き、おやつには不自由しませんでした。少し持って帰らせていただき、しばらく楽しみができました。また、衣装の下に着用していたユニクロのキャミソールとペチコート、靴下などはそのままもらえると聞いて、得した感が。とりあえず目先の現物支給でも十分嬉しいです。たくさん届いていたお花も皆で分けて持って帰りました。
舞台を経験したことで、発声や滑舌、記憶力、血行などが良くなり、心のブロックも外れ、友人が増える、といった恩恵が。さらに一流の業界人が関わってくれて、一生に一度のオートクチュールのようなドレス姿をステージで披露。経費がかさんで赤字だと思うと、逆に自分が何十万円か出演料を払った方がいいような気がしてきました……。これも演劇マジックでしょうか。黒字にするのは大変な業界だとわかったので、今後は客として、積極的に高いチケット代を払っていきたいです。
お金で換算しようとしてもできないのが舞台で得られる貴重な経験。記憶力、体力、人脈など、プラスの影響に目を向けたいです。

(次回は7月24日に公開予定です)
1974年東京都千代田区生まれ、埼玉県育ち。武蔵野美術大学短期大学部卒業。漫画家、コラムニスト、小説家。著書に『辛酸なめ子の世界恋愛文学全集』『女子校礼讃』『電車のおじさん』『煩悩ディスタンス』『世界はハラスメントでできている』『この人生、前世のせいってことにしていいですか』など。文化放送「武田砂鉄 ラジオマガジン」木曜後半レギュラー。
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