著者の窓 第16回 ◈ 堀江 栞『声よりも近い位置』

著者の窓 第16回 ◈ 堀江 栞『声よりも近い位置』

 岩絵具と和紙と膠によって、独特の質感をもった作品を生み出し続ける画家・堀江栞さん。彼女のデビュー作から最新作まで、九十点余りの作品を収める画集『声よりも近い位置』(小学館)が発売されました。「対象物と、長い時間にわたって対話を続けることで彼らに近づき、静かに発せられる声を、なんとか聴き取りたい」──。動物や石、人形をモチーフにしていた初期作品から、パリ留学を経て「人」を描くようになった近作まで、約十二年の軌跡を収めた初めての画集について、堀江さんにうかがいます。


息づかいが聞こえるほど、モチーフに心を添わせて

──『声よりも近い位置』は堀江さんにとって初めての作品集です。本をまとめるにあたって、どんなことを意識されましたか。

 ページの許す範囲内で、これまでの活動の軌跡を流れとして示せる一冊にしたいという思いがありました。岩絵具を使って絵を描くようになって十二年ほどになります。十二年というのは長いようで、創作の時間としては決して長くないんですね。その間、わたしは新しいテーマやコンセプトを次々追い求めてきたわけではなく、同じことを考え続けながら一枚ずつ積み重ねて進んできたという感覚があって、十二年の創作の底に流れているものを、作品集の形で示すことができればと考えました。

──〝声よりも近い位置〟という言葉は、昨年(二〇二一年)開催された個展のタイトルでもありますね。ここにはどんな思いが込められているのでしょうか。

 これはわたしがモチーフに向かう時の基本姿勢のようなものなんです。描きたいモチーフと相対する時には、距離的にだけではなく、精神的にも寄り添いたいと思っていて。それこそ言葉を発する前の、息づかいを感じるような距離まで近づきたいんですね。といっても一方的に距離を詰めるのではなく、相手を侵犯しないような形でお互いに歩み寄りたい。そういう対象との関係を示した言葉です。英題の「A Breath Away」も、訳者の方がこうした思いを汲んでくださいました。日本語と英語、両方あわせてのタイトルだなと思っています。

堀江栞さん

──作品集の前半には動物、石、人形などをモチーフにした作品が収められています。モチーフはどのように選ばれているのでしょうか。

 うまく言葉では伝えられないんですが、ふと心に飛び込んでくるんですよね。後から分析してみると、痛みや悲しみを内包した存在──といってもわたしがそう感じているだけなんですけど、そういうモチーフに強く惹かれているようです。生物でも無生物でもそれは同じで、痛みや悲しみを抱えたものに出会うと、絵にしたい、その存在の芯にあるものをすくい取りたいと感じます。

有機溶剤へのアレルギーが進路を左右した

──堀江さんは岩絵具を使って絵を描かれていますが、日本画の画材を使うことは作品にはどんな影響を与えていますか。

 岩絵具は簡単にいうと鉱物やガラス質のかたまりを砕いたもので、質感がそれぞれ異なっているんです。非常に粒子の細かい片栗粉のようなものから、粗塩くらいのものまである。本格的に使い始めたのは大学の日本画専攻に入ってからですが、高校の頃に使っていた水彩絵具とはまったく勝手が違うなと思いました。色と質感が表裏一体である、色が質であり、質が色である、という捉え方をするようになったのは画材の影響が大きいと思います。ただ岩絵具は扱いが難しいので、初期の頃はまだ質感をうまく生かし切れていないんですよ。質感を生かしながら、モチーフを描写できるようになったのは中盤以降で、その手応えが後に人物をモチーフにする際の後押しになりました。

凜然
《凜然》 2010年
岩絵具 膠 和紙 作家蔵

──大学で日本画を専攻されたのは、有機溶剤へのアレルギー体質が大きな理由だったそうですね。

 当初は油絵科を目指していたんですが、油絵具やアクリル絵具を使って絵を描いていると決まって具合が悪くなる。これが有機溶剤のアレルギーであると判明して、油絵科は諦めることになったんです。一度は芸術学を専攻することも考えたんですが、どうしても自分の手を動かして絵を描くという道を諦められなくて、日本画の画材なら大丈夫かもしれない、という可能性に賭けることにしました。最初から日本画を目指していた方には申し訳ないんですけど、わたしにとってはそれが唯一絵を描いていく手段でした。

──油絵を描きたいのに体質的にそれができない、というのは苦しいですね。

 はい。とてもショックでしたし、不安も大きかったです。本格的に絵の道に進もうとした段階で、体質的なリスクや制約を抱えてしまうことになったので。そういう制約は今も抱えて生きています。日常生活にも支障があって、香水や柔軟剤の匂いが苦手ですし、新刊書店のインクも得意じゃありません。せっかく栞という名前なのに新刊が読めないんです。今回の作品集で一番苦労したのは、色校(試し刷り)チェックでした。印刷所から色校が届いたら、すぐ広げて、しっかり乾かす。アトリエの窓を全開にして、扇風機を回しながらチェックして、という方法を取りました。無事本が出せたのは制作スタッフの皆さんや家族の協力のおかげです。

パリ留学の日々が、「人」に向き合うきっかけをくれた

──二〇一六年から一年間、五島記念文化賞の奨学生としてパリに留学されました。この留学を機に、人物をモチーフにした作品が増えてきますが、どんな心境の変化があったのでしょうか。

 それまで人をモチーフにしてこなかったのは、過去にいじめられた経験などもあって、正面から向き合う覚悟が持てなかったからなんです。ただパリに行って、そうした気持ちが変化してきたんですね。日本人がまわりにほとんどいなかったので、いやな思い出を視覚的に連想することもありませんでしたし、聞きたくない言葉を聞かずにも済んだ。そのことで恐怖心を抱かずに、人に接することができたんです。テロ(二〇一五年十一月にパリで起きた同時多発無差別テロ事件。死者百三十人、負傷者三百五十人以上を出した)の直後でまだ張り詰めた空気が漂っていましたし、華やかな観光都市の片隅には、難民や路上生活の方々もたくさんいて、考えさせられました。そういうなかで、日々の生活を通して出会った人たちから、うまく言葉にできない励ましを受けているうち、「人」に正面から向き合うべき時が訪れたのではないか、と思うようになりました。

堀江栞さん

──パリでの印象的な出会いの数々は、今回収録されているエッセイにも綴られていますね。堀江さんの描かれる人物は年齢・性別などがあえて曖昧に描かれているようにも感じます。具体的なモデルはいるのでしょうか。

 街で見かけた人や話をした人などがもとになっていますが、特定のモデルはいません。街で出会った人々のイメージが重なったところに、自分で線を引いて形を与えたのが「輪郭」という人物画の連作です。描くうちに、その人の「芯」の部分だけが残り、具体的な要素が抜け落ちていく。性別や国籍を明らかにすることでしか表現できないものもあると思いますが、普遍的な人物にすることで、無名だけれど個人として「ここに在る」人間の存在を描きたいと考えています。

──二〇一九年の大作「後ろ手の未来」で初めて群像を描かれていますね。統一された服装の男女が並んで、痛みや悲しみをこらえているような表情を浮かべて立っている。この絵はこれまでの堀江さんの作品と、だいぶ雰囲気が異なるように感じました。

「後ろ手の未来」では初めて群衆を描きました。最近社会全体に物を言いにくい雰囲気、全体を優先して個の尊厳を踏みにじるような風潮が広がっている気がして、危機感や恐怖感を抱いていました。そんな状況の中で、抑圧に抗う個の尊厳、強さみたいなものを描きたいと思ったのがこの作品です。そのためには群像でなければいけないし、大きな絵でなければいけない。この絵は顔がほぼ実寸なんですよ。テーマやコンセプト優先で描いているわけではないですが、社会に対する思いも表明していかなければいけない、と思っています。

──そうした状況を変えていこう、という静かな決意も作品からは感じられました。

 もしそう受け止めていただけたのなら、嬉しく思います。声を上げると嫌がられることも多いんですけど、辛い経験を次の世代に受け継がせたくはない。たとえば若手の女性フリーランスとして活動していると、理不尽な思いをすることが多々あるんですね。もしわたしが男性だったら、もっと年上だったらこんな対応はされないだろう、という思いを味わってきました。こういう状況は変えなければいけないと思います。といって一人でできることは少ないですけど、まずは「あなたが受けている痛みはたしかに存在するんだよ」といいたい。その痛みや苦しみが存在しないようなふりをされたら、行き場がなくなってしまう。わたしの絵を見てくださった人を裏切りたくはないと思っています。

自分の足で立って、歩き続けていきたい

──本の表紙に使われているのは「後ろ手の未来 2021」と題された連作のうちの一枚です。この絵を表紙に選ばれたのにはどんな理由があったのでしょうか。

 この絵が当時の最新作だったので、五枚の連作のどれかを使おうという考えが始めからありました。この絵を選んだのは感覚的な話になりますけど、この人が一番緊張せずに話しかけられるんじゃないかなと(笑)。ちなみにわたしの描いている人物にはみんな名前があるんです。時間をかけて描いているうちに、自然と名前が浮かんでくる。そうなって初めて、モチーフにちゃんと向き合えているという気持ちになります。ここではいいませんけど、表紙の人物にも名前があるんですよ。

──「輪郭 #17」は平松洋子さんのエッセイ集『父のビスコ』(小学館)の装画に用いられた作品です。どのような経緯で表紙を飾ることになったのですか。

 いろいろなご縁が重なって、平松さんが個展に来てくださったんです。それからしばらくして、「輪郭 #17」を表紙にしたいとのご連絡をいただきました。描き下ろしで装画を依頼されるのも嬉しいんですが、こうやって気に入ってくださった一点を指定していただくのも嬉しいですね。特に『父のビスコ』は平松さんにとって重要な作品だと思いますし、表紙に選んでいただけたのは光栄なことでした。装画は本の世界観をお借りして、また違った絵の見方をしてもらうことができるので、ありがたいと思っています。

輪郭#17
《輪郭 #17》 2020年
岩絵具 膠 和紙 作家蔵
『父のビスコ』装画作品

──現在、神奈川県立近代美術館鎌倉別館にて企画展「堀江栞──触れえないものたちへ」が開催中(〜五月二十九日)。作品集によってこれまでの軌跡をまとめられた今、これからの創作活動についてどんなことをお考えですか。

 やっぱり絵を描き続けるって、私には難しいことなんですよ。仕事として続けていく大変さもありますし、一枚一枚妥協できないという緊張感がある。少し苦しい、というところで手を抜いてしまうと、他人の目には分からなくても、後悔がずっと自分の中に残り続けると思うんですね。どうすれば自分を律し続けられるのか。技術だけではなく、精神的な部分がすごく大切だなと思っています。パリ留学によって人物を描けるようになり、新たなスタート地点に立てたという気がしました。そこから始まった道を、これからも自分の足で立って、長く歩き続けていくことがわたしの目標ですね。


声よりも近い位置

『声よりも近い位置』
小学館

【展覧会情報】
堀江 栞──触れえないものたちへ

● 5月29日まで開催中
神奈川県立近代美術館鎌倉別館
〒248-0005 神奈川県鎌倉市雪ノ下2-8-1 TEL:0467-22-5000
午前9時30分〜午後5時(入館は午後4時30分まで) *月曜休館
観覧料:一般700円、20歳未満と大学生550円、65歳以上350円、高校生100円
*「生誕110年 松本竣介」展と同企画開催
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堀江 栞(ほりえ・しおり)
1992年フランス生まれ。多摩美術大学美術学部絵画学科日本画専攻卒業。2015年、第6回東山魁夷記念日経日本画大賞展入選。同年、第26回五島記念文化賞美術新人賞を受賞し、翌年、奨学生として1年間パリで制作を行う。20年、第6回世田谷区芸術アワード“飛翔”美術部門を受賞し、21年受賞記念個展「後ろ手の未来」を開催。同年、五島記念文化賞研修帰国記念個展「声よりも近い位置」を開催。第32回タカシマヤ美術賞受賞。22年「VOCA展2022」にVOCA佳作賞受賞作〈後ろ手の未来〉を出品。

堀江栞さん

(インタビュー/朝宮運河 取材中写真/松田麻樹)
「本の窓」2022年6月号掲載〉

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