夏川草介『レッドゾーン』

夏川草介『レッドゾーン』

人は人を支えることができる


 昨年、私はコロナ診療をとりあげた一冊の小説を上梓した。第三波を題材とした『臨床の砦』という名のそれは、圧倒的な不安や苛立ちの中で、ともすればコロナ診療から逃げ出したくなる自分を、なんとか踏みとどまらせ、精神の安定を保つための、いわば強壮剤であった。ゆえに完成した作品は、悲鳴のような様相を帯びている。各所で発言したとおり、私は『臨床の砦』に一言も嘘は書いていない。すべて自分自身が経験した事実に基づいて書き上げた。けれどもどんな事実も、伝え方によって受け手の印象はいくらでも変わる。無我夢中で書き上げた『臨床の砦』に、伝え方を考慮する余裕があったかと問われれば、いささか心もとない。

 本書『レッドゾーン』は、そんな思いの中で、この長い戦いの始まりとなったコロナ第一波に、改めて目を向けた作品である。

 2022年8月現在、医療現場はかつてない多数の患者の押し寄せる第七波である。本稿を執筆している今週も、発熱外来には連日100人を前後する患者が押し寄せている。駐車場には長い車列が生じ、入院のベッドは確保できず、一般的な解熱剤さえ枯渇しようとしている。現場には怒りや苛立ちが往来し、疲労と重圧がそこに拍車をかけている。しかしそれでも、私がもっとも過酷であったと感じるのは、コロナ第一波なのである。ワクチンや治療薬もないまま、ただ茫然と患者を看取るしかなかった第三波でもなく、デルタ株が猛威を振るった第五波でもない。未知という茫漠たる恐怖だけが広がっていたあの第一波において、人間はどのように行動したのか。何ができて、何ができなかったのか。かつてより少しばかり冷静になった目で見つめ直すことは、苛烈な現状を乗り越えるためにも意味があると考えたのである。

 感染症のみならず、戦争や異常気象など、暗澹たる心持ちになるニュースが多い中、人間の狂気や、絶望、理不尽や浅ましさなどの負の側面を描いた文学作品は多い。それもまた文学の大切な役割であろうが、一方で、どれほど過酷な現実があっても、揺るがない誇りを維持している人々を、私はしばしば臨床現場で目にしてきた。それがもっとも顕著に表れたのが第一波であった。医師だけではなく、看護師だけでもなく、ときに患者からも、勇気や活力を受け取ることがあった。『レッドゾーン』は現場の悲鳴を伝える作品ではない。それが皆無だとは言わないが、悲鳴や非難や、他者を攻撃する声が、人間に真の勇気を与えてくれることはない。これは私なりのささやかな哲学なのである。

 人は人を支えることができる。

 その思いは、私の確信ではなく、願いに過ぎない。けれども容易に捨てきれない願いである。本書を通じて、そんな私の過ぎた思いがわずかでも多くの人に伝われば、これほど嬉しいことはない。

 


夏川草介(なつかわ・そうすけ)
1978年大阪府生まれ。信州大学医学部卒。医学博士。認定内科医。消化器病専門医。消化器内視鏡専門医。肝臓専門医。長野県にて、地域医療に従事。2009年「神様のカルテ」で第十回小学館文庫小説賞を受賞しデビュー。同作で10年本屋大賞第二位。「神様のカルテ」シリーズは三度映像化された。他の著作に『神様のカルテ2』『神様のカルテ3』『神様のカルテ0』『新章 神様のカルテ』『本を守ろうとする猫の話』『始まりの木』『臨床の砦』などがある。

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レッドゾーン

『レッドゾーン』
著/夏川草介

【著者インタビュー】平松洋子『おあげさん』/油揚げの魅力の不思議さを、2年かけてじっくり綴ったエッセイ集
「推してけ! 推してけ!」第23回 ◆『レッドゾーン』(夏川草介・著)