「推してけ! 推してけ!」第23回 ◆『レッドゾーン』(夏川草介・著)
評者=池上 彰
(ジャーナリスト)
あのとき何が起きていたのか
コロナに脅える病院の医師たちの奮闘
これは医療の世界を目指す人、必読の書だ。新型コロナウイルス対応のワクチン接種が進み、新型コロナがどういうものか理解と研究が進んだ現在では、恐怖心を抱く人も少なくなったが、いまから二年前の二月は、そうではなかった。当時、医療の現場で何が起きていたのか。さらに地域社会はどんな受け止め方をしていたのか。それを改めて追体験することができる書だ。
舞台は長野県にある公立の信濃山病院。もちろん架空の病院だが、著者の夏川草介氏は長野県在住の現役医師。彼の勤務している病院がモデルなのだろう。
中国・武漢で発生が確認された新型コロナウイルスによる感染症は、当初は遠い出来事だと思われていたが、感染者がいることが判明したクルーズ船が横浜港に入港したことで、突然リアルな脅威となる。
とはいえ、多くの人は、患者は横浜の病院に入院して治療を受けているものと思っていたから、まだまだ緊迫感はなかったろう。ところが、信州の小さな公立病院にまで患者受け入れの要請が来るに至って、医師や看護師はパニックに陥る。ここに呼吸器の専門医はいないのに、周辺の病院が受け入れを拒否したため、お鉢が回ってきたというわけだ。
こんなとき、もしあなたが医師だったら、どうしただろうか。あるいは、あなたの家族が、この病院で勤務していたとしたら……。
夏川氏が新型コロナ感染症を扱った書としては、既に文庫化された『臨床の砦』がある。この小説も舞台は信濃山病院。ただし、このときの設定は、感染が国内で広がり、緊急事態宣言が出たり、全国の小中学校が臨時休校になったりして混乱の極みにあった時点のことだった。この中に、初めて患者を受け入れることになった頃のことを回想するシーンがある。
「わずか一年前、コロナウイルスは、完全に正体不明のウイルスであった。感染形式は不明、治療法は不明、予後は不明、後遺症も不明。どのように隔離すればよいかも明確でなく、患者の受け入れが決定した感染症指定医療機関には、恐怖感が広がっていた。信濃山病院でも、最初の患者受け入れ当日に、病棟で泣き出した看護師もいたのである」
そのとき、具体的にはどんなことがあったのか。それを描いたのが、今回の『レッドゾーン』だ。レッドゾーンとは、「防護服なしでの立ち入りが禁止された」場所のこと。信濃山病院が患者を受け入れることになり、急遽廊下に衝立を立て、感染リスクのないグリーンゾーンと医師や看護師が防護服を脱ぐイエローゾーン、そしてレッドゾーンに分けるという急ごしらえを象徴している。
患者の受け入れを決断した院長に、医師たちは猛反発する。呼吸器の専門医がいないのに、何をすればいいというのか。
結局、受け入れを決めた途端、今度は医師の家族が反発。同じ屋根の下で別居せざるを得ない家庭も出てきてしまう。
現場はこんなに危機的な状況なのだけれど、患者のプライバシーを守り、病院の風評被害を防ぐために、コロナ診療の実態は、外からは見えない。それは「沈黙の壁」だという。
そうか、当時の私たちは、「壁」の向こうで何が起きていたかを詳しくは知らなかったのだ。そのくせ「医療従事者の皆さんに感謝しましょう」などと言っていたのだ。
あのとき何が起きていたのか、私たちは知るべきだし、こんな困難に立ち向かった医療従事者がいたことを知って、敢えてその世界に飛び込もうと考える若者たちが現れることを、私は願ってしまう。
現場で奮闘した者だけが書けるリアルな小説だ。
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『レッドゾーン』
著/夏川草介
池上 彰(いけがみ・あきら)
1950年長野県生まれ。慶應義塾大学経済学部卒。NHK勤務を経てフリーに。数多くの報道番組に出演する傍ら、大学でも教鞭を執る。主な著書に「池上彰の世界の見方」シリーズなどがある。
〈「STORY BOX」2022年9月号掲載〉