関西弁と小説の関係を探る。

テレビのお笑いなどで、独自の文化を作り上げてきた関西弁。日本文学作品の中でもユニークな立ち位置を占める関西弁を用いて、小説家たちはどのように作品を執筆してきたのでしょうか?

「関西弁」と聞けば、「面白い」、「賑やか」、「小気味良い」……そんなイメージを抱く人も多いのではないでしょうか。日本国内の方言のなかでもユニークな個性を持っている関西弁ですが、明治から平成にまで至る日本の近現代文学史のなかで関西弁が占めている立ち位置も、なかなかどうしてユニークなもの。

たとえば、2008年に『乳と卵』で芥川賞を受賞した川上未映子は、J.Dサリンジャーの『フラニーとズーイ』を関西弁で訳すことに挑みました。この『フラニーとズーイやねん』では、会話文に関西弁が使われることにより、文章のテンポだけでなく、作品そのもののイメージをガラッと変えることに成功しています。

このように、関西弁でしか表せない情感がある一方で、この方言がこれまでの文学史において「異物」として見られていた存在であることもまた確かです。何故、関西弁は文学の世界のなかで「異物」として見られていたのか。今回は、関西弁を使った文学作品を紹介しながら、その答えに迫っていきます。

 

「言文一致」と関西弁

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関西弁と文学の関係性について、まずは言文一致運動について触れる必要があります。読み書きができる人が増加していた明治時代、文筆家たちは書き言葉と話し言葉の差が広がっていることを危惧していました。古い形にとどまりやすい書き言葉と、時代と共に変化していく話し言葉のあいだの乖離は、中世以降において大きく広がっていく一方だったのです。

それではなぜ明治という時代に、書き言葉と話し言葉の乖離が問題になったのでしょうか? そこには、日本が中央集権型の近代国家として生まれ変わるためには、言語によるコミュニケーションが均一化されなくてはいけない、という課題があったのです。このように近代日本における「国語」の再発明が進むなか、文筆家たちもまた、話し言葉に近い口語体で文章を書くことで、日本独自の近代文学のあり方を模索したのです。二葉亭四迷『浮雲』をはじめ、山田美妙『夏木立』尾崎紅葉『多情多恨』などにより、明治時代の末には一般の文章はほぼ口語文体となったと言われています。

さて、この言文一致運動のなかで、作家たちが、近代文学の共通語として選んだ「口語」とは、つまり、生まれた場所に関わらず、首都・東京で話されている東京弁(標準語)でした。この流れの中で、イントネーションやアクセントを含めユニークな言語的特徴を多く持った関西弁は、日本文学の中心からは姿を消すこととなります。

 

関西を愛した文豪、谷崎潤一郎

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出典: http://www.amazon.co.jp/dp/4101005125

しかし、その状況でも関西弁は日本文学の中にひっそりと根付いていました。関東大震災をきっかけに37歳で関西へと移住した谷崎潤一郎は、後に3人目の妻となる松子との運命的な出会いを果たします。倚松庵いしょうあんと呼ばれる住居で松子と彼女の妹の日常をモデルに代表作『細雪』を執筆するなど、谷崎の作家活動において関西への移住は大きなターニングポイントとなりました。

「きっと夕方までに帰るなあ姉ちゃん」 「ふん、きっと帰る」 「きっとやなあ」 「きっとや、おかあちゃんとこいちゃんは神戸でお父さんが待ってはるさかい、晩の御飯たべにいくけれど、姉ちゃんは帰って来て悦ちゃんと一緒に内でたべる。何ぞ宿題あるのんやろ」

『細雪』より

『細雪』はかつて大阪の上流階級でのみ使われていた船場言葉で書かれており、日本の女性が持つ奥ゆかしさが余すことなく表現されています。 また、谷崎は随筆「私の見た大阪及び大阪人」において、声の特徴や使う言葉から東京と大阪の女性に見られる違いを述べています。

東京の女の声は、良くも悪くも、あの長唄の三味線の音色であり、また実にあれとよく調和する。キレイといえばキレイだけれども、幅がなく、厚みがなく、円みがなく、そして何よりも粘りがない。だから会話も精密で、明瞭で、文法的に正確であるが、餘情がなく。含蓄がない。大阪の方は、浄瑠璃ないし地唄の三味線のようで、そんなに調子が甲高くなっても、その声の裏に必ず潤いがあり、つやがあり、あたたか味がある。

『私の見た大阪及び大阪人』より

『細雪』に宿る、細やかで、どこか音楽的でもある情感。独自の審美眼から大阪の女性の声を高く評価する谷崎だからこそ、関西弁を効果的に使いながら艶やかな女性の姿を描くことができたのでしょう。

 

織田作之助「夫婦善哉」と関西弁の摩擦

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出典: http://www.amazon.co.jp/dp/4101037019

大阪に生まれ、大阪の日常を伸び伸びと描いた織田作之助。井原西鶴の影響を色濃く受けた織田作は、独特の戯作調の文体を用いて代表作「夫婦善哉」を発表しています。過去に何度も舞台化や映像化されている「夫婦善哉」は、今なお高い人気を誇る名作。織田の生誕100周年だった2013年には、初めて連続ドラマ化されたことも話題となりました。

しっかり者の人気芸者、蝶子が甲斐性の無い若旦那の柳吉を支えて奮闘する「夫婦善哉」。大阪の人情味あふれる雰囲気を、軽快な関西弁で描いたこの作品は、織田を新進作家として広く知らしめる作品にもなりました。更に、柳吉の発言には大きな特徴が見られます。

「ど、ど、ど、どや、うまいやろが、こ、こ、こ、こんなうまいもん何処イ行ったかて食べられへんぜ」 「こ、こ、ここの善哉はなんで、二、二、二杯ずつ持って来よるか知ってるか」

織田作は、言文一致運動によって近代文学における異物となった関西弁だけでなく、吃り癖のある柳吉の話し方を作品に落とし込むことで、話し言葉と書き言葉の摩擦や歪みを蘇らせたと言えるでしょう。このように関西弁を巧みに使った織田の作品は、後に紹介する町田康をはじめ、後世の文学史にも大きな影響を与えることとなるのです。

(次ページに続く)

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