「石川淳」ってどんな作家?【教えて!モリソン先生 第4回】
アメリカ人研究者、モリソン先生による連載第4回は、「マルスの歌」「佳人」等の作品で知られる文豪、石川淳についての講義! アカデミックな作家論の一部を垣間見れる、濃い内容になっています。
こんにちは。ライアン・モリソンです。日本文学の研究者・翻訳家である私が皆さんに文学作品の読み方を提案するこの連載も、これで第4回。
先日、連載でおなじみの学生・美佐子ちゃんが、私の研究室を訪ね、私の博士論文(題:『写実的リアリズムへの対抗言説としての石川淳初期5作品』)について色々と私に質問をしました。ここで2人の間に交わされた会話をなるべく忠実に再現します。
抵抗の作家? 反私小説? 「石川淳」の作家イメージ
美佐子ちゃん:ねね、もりもり先生、私は夏休みの間、先生がお書きになった博士論文の英語版と日本語版の両方を読みました。何あれ?? ややこしいというか、濃厚すぎるというか、とにかくさっぱり解らなかった! 一体何が言いたい論文だったんですか?その主張と概要をもっと解りやすく説明してくれませんか?
モリソン:いいですよ。実は私は、自分の博論について語ること程、世の中で好きなことはないのですよ。さて、どこから始めればいいでしょう?
美佐子ちゃん:まず、石川淳はこれまでどのように理解されてきた作家なのかというところから説明してください。
モリソン:石川淳の先行研究においては、大きく分けて2つの傾向があります。一つは彼やその作品を「抵抗作家」(resistance writer)として解釈する傾向。もう一つは、彼を「反私小説」の作家として理解する傾向。
美佐子ちゃん:「抵抗作家」? 何に対する抵抗のことですか?
モリソン:当時の日本の軍国主義・国粋主義・帝国主義・ファシズムなどに対する抵抗です。特に、石川の「マルスの歌」(1937)という作品の「抵抗的」要素を強調し、彼を抵抗作家としてとらえるのです。
美佐子ちゃん:「マルスの歌」は日中戦争の時代に、巷にあふれる軍歌や、映画館で上映されているプロパガンダ映画に対する嫌悪感・拒否感を表明したことで、官憲から発禁処分を受けた作品ですよね? 当時の時代状況からすれば、とても「抵抗的」な作品だと思いますが、そういう見方をしてはダメだと先生は言いたいの?
モリソン:ダメというほどではないが、彼を反ファシズム運動の英雄扱いにするのは大げさだと思うのね。彼の初期作品における政治性は、非常に複雑であり、反戦的、あるいは反体制的要素もあれば、そうでないところもある。よって、単純に抵抗作家というレッテルを貼ることはできないはずなんですよ。
美佐子ちゃん:なるほど。つまり「マルスの歌」という作品だけを見すぎて、全体が見えなくなっちゃっているんですね。
モリソン:その通りです。「マルスの歌」の他にも、作者本人の自伝からのいくつかの断片や、戦後の作品、本人のアナーキズム趣味もその主張の論拠にはなっていますが、正反対の国家主義やヒットラーを肯定するような発言もしていることを無視して、彼の政治性を単純化することには無理があります。
石川淳の私小説批判
美佐子ちゃん:もう一つの、石川を「反私小説家」と見做す傾向とはどういうものですか?
モリソン:田山花袋の『蒲団』(1907)を皮切りに、近代文学の一つの大きなジャンルになったのが私小説ですが、この「反私小説」説によれば、石川は私小説に対して抵抗した作家となります。
美佐子ちゃん:その説の何がダメなの? 実際そうだったのではないですか? 私も、石川本人が“私小説は大嫌い”とインタビューで発言しているのを読んだことがありますし、いくつかの作品には「反私小説」的な宣言(マニフェスト)ととらえられる部分があると思いますが。
モリソン:確かに。間違いなく彼は「私小説」のファンではない。ただ、その側面ばかり見ていると、彼の全作品におけるもっと重要でもっと広いターゲット、つまり攻撃対象が見えなくなるのです。
美佐子ちゃん:え?石川が作品を書く上でのターゲットは他にあると、先生は考えているのですか?
モリソン:そうです。それは、日本近代文学の大前提とも言える「ミメーシス」(mimesis)という概念です。私の博論はごちゃごちゃ書きすぎてしまっているかもしれませんが、石川の全ての作品はさまざまな観点から「mimesis」という概念を批判しているのである、という主張で一貫しています。
美佐子ちゃん:ミメーシスっていう概念は日本近代文学においてそんなに重要な役割を果たしていたの?
モリソン:果たしましたよ。坪内逍遥を始めとする明治時代の文学者たちは、日本文学におけるそれまでの方法論を一蹴し、ミメーシス、すなわち「現実の模写(the imitation of reality)」という技法や理念を導入しました。
坪内が『小説神髄』において、「人情」(human feelings)・「風俗」(social customs)・「世態」(society)、この三つのものをありのままに模写することが小説の主眼であると主張したということは第三回の講義でもお話ししましたね。つまり、「“真の小説”とは既存のストーリーや文学作品を換骨奪胎的に流用(アダプテーション)して創作するものではなく、人情、風俗、世態を題材にしそれを書き写すものである」という主張です。
出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4003100417
そして、この坪内が西洋から輸入した主張が日本近代文学の主流として定着したということも話しましたよね。このように、「芸術とは現実のミメーシス(模写)である」という原理が、当時の文学の絶対的な大前提となっていたのです。
美佐子ちゃん:では、石川は当時支配的だった国粋主義に抵抗した、あるいは私小説に対して戦っていたというよりも、日本近代文学の基礎概念となっていたミメーシスの概念に対して戦っていた、ということを先生は言いたいのですね。
モリソン:ええ。少なくとも私はそう考えています。そして彼は単調的に一つの角度から攻め続けたのではなく、多角的に、さまざまな観点からその攻撃を行いました。作品によってその戦略が異なり、全然違う攻め方をしているのです。
石川淳の初期小説を知ろう
美佐子ちゃん:さて、先生が博論で取り扱った5作品ですが、その題目をもう一度聞かせてもらえませんか? 忘れてすみません(笑)。確か、処女作の「佳人」(1935)も中に入っていましたよね。
モリソン:ええ、「佳人」と、その1年後に発表された「山桜」(1936)という幻想的なショートストーリーを扱いました。
美佐子ちゃん:そうでした! そして、フィクションだけなく確か石川の有名な文芸評論のいくつかも論じていましたよね。
モリソン:そうです。戦時中に発表した『文学大概』(1942)に収録された三つの文芸評論です。実は、石川は37年に発表した「マルスの歌」で裁判に呼ばれて罰金刑に処されたので、戦時中に現代日本を設定にしたフィクションを書くことが非常に難しくなり、代わりに遠い過去の世界を題材にした短い歴史的作品しか書かなかったのです。そしてそれ以外は、文芸評論を中心に書いていました。
美佐子ちゃん:ちょっと待ってください。今ノートを読み返します。先生の言う、「三つの文芸評論」のタイトルは……「文章の形式と内容」、「短篇小説の構成」、そして「江戸人の発想法について」、ですね。
ではそれらの作品(フィクションと評論)は、芸術とは現実の模写であるという概念とそれぞれどのように関係している――先生の主張によれば、対抗している――のですか? 端的に説明してください。
モリソン:端的に……。
美佐子ちゃん:ええ、簡単にお願いします。
モリソン:まず、処女作の「佳人」は私小説、すなわち自伝的リアリズム(autobiographical realism)をパロディーにする作品です。この作品が私小説のパロディーであることは、これまでに多くの批評家たちに指摘されてきましたが、いかにして私小説をパロディーにしているか、どんな具体的な手法を使っているのかということはきちんと説明されていませんでした。そこで私は、その空白を埋めるような説を唱えています。
美佐子ちゃん:どのように?
モリソン:作者自身の実際の経験をあるがままに描くことを大前提とするのが私小説ですが、「佳人」では4つの媒介を機能させることによって、その大前提に潜む誤りを露呈させている、と私は考えているのです。
美佐子ちゃん:「4つの媒介」といえば、この前の講義でも説明していた「① 象徴的媒介」、「②表層媒介」、「③深層媒介」、「④自己言及的媒介」のことですね?
モリソン:その通り、よく覚えていてくれましたね。石川は、古今東西の文学・文化について恐ろしいほど精通していた作家です。その博識を生かして、過去の他の文学作品を様々なかたちで介在させたり、色々な文学的手法をこの一作品の中に取り入れたりしています。他作品への言及や象徴などによるほのめかしが多過ぎて、はっきり言って「やり過ぎだ」という批評家もいましたが、私はそれこそがあえて石川が意図したところであると考えています。
美佐子ちゃん:「佳人」は、語り手が自分の嫉妬や肉欲について饒舌に一気に語っている、というだけの作品だと思っていました。媒介の存在を意識して読むとより深く理解できそうですね、おもしろいかも!でも、細かい説明を聞くと長くなりそうなので、是非、今度ご飯でも食べながら詳しく教えてほしいです!
モリソン:ご飯ですか……。
幻想小説、江戸文学……「反・リアリズム」の作家としての石川淳
美佐子ちゃん:では「山桜」は?あの作品は中々面白かったです。私は「佳人」よりよっぽど好きでした。どこか女性的というか、表現が美しいというか、夢を描いたような作品ですよね。
モリソン:まるで夢のよう、というのは良い指摘ですね。私は、「山桜」を幻想文学の一つとしてとらえ、写実的リアリズムに対抗している作品だと考えています。ここで「幻想」(fantasy)というジャンルについて考えてみましょうか。美佐子ちゃんは、文学者ツヴェタン・トドロフの「the fantastic」という概念について覚えているかな?
美佐子ちゃん:確か、先生は授業の中で、「トドロフの『the fantastic』という概念のポイントは『躊躇』にある」というふうに説明されていましたよね。
モリソン:細かいところまでよく覚えていますね。「山桜」ではまさに、語り手である主人公は目の前の出来事が現実(real)なのか幻影(illusionary)なのかと躊躇していますし、見方を変えれば、我々読者も一体この物語は現実なのか、あるいは単なる語り手の想像(imaginary)に過ぎないのかと躊躇させられます。
美佐子ちゃん:へ~、「語り手と読者は異なる躊躇を経験する」というのはおもしろい指摘ですね。とにかく、あの物語は結局、夢なのか現実なのかわかりませんでした。
モリソン:その答えは永遠に出ません。というか、石川は〈現実〉と〈夢〉の二項対立的な関係を打破していると言っていいでしょう。「山桜」という作品は、〈現実〉とはありのままに写し出せるようなものではなく、むしろ夢・幻想というフィルターを通してこそ見ることができるものであると示しているのです。
美佐子ちゃん:ここにもまた、「小説は現実のありのままを書き写すもの」という近代文学のあり方を問い直すような仕掛けがありそうですね!実際に、石川のリアリズム批判を裏付けるような評論はあるのですか?
モリソン:いい質問ですね!「リアリズム」ということに関して言えば、石川自身も「文芸作品の内容的価値論争」と呼ばれる有名な文学論争を意識したのか、「文章の形式と内容」(1942)という評論を書いています。文学作品の価値はどこにあるか、つまり形式にあるのか内容にあるのか、という問題に対する答えとして、石川はその価値は「形式」(style)にあるのでも「内容」(referential content)にあるのでもなく、むしろ「(作者本人には)意識されざる内容」(unconscious content)にある、としているのです。
美佐子ちゃん:〈文学作品の価値〉は作者によってコントロールできる範疇にあるのではなく、作者が書いているうちに意図せずに生まれてくる内容にある、ということですね。なんだか難しくなってきましたが、文章論ということで言えば、この講義で何度も話題になった坪内逍遥の小説論とも関係してきそうですね。
モリソン:その通り! さすが、いいところに気がつくね。ここでもし、「リアリズム」という立場にたって考えれば、「〈言葉〉とは、外部の世界を伝えるための道具である」ということになりますよね?しかし、石川はそうではなくて、言葉そのものにおいてそれなりの構造、美、論理が存在するものであり、芸術的価値はそこにあると考えました。これを石川は「ペンの理法」と呼んでいますが、これ自体が暗に坪内による『小説神髄』への反論となっているのです。
美佐子ちゃん:先ほども「石川は、古今東西の文学に精通していた」と先生は言ってましたが、石川の江戸文学に対する異様なこだわりも、同じ文脈で語ることができるのですか?「ジジくさい」と言うと言葉が悪いけど、先生がおっしゃっているような「近代文学への批判」という要素よりも、「古き良き江戸への逃避」みたいな懐古趣味を感じてしまいます。
モリソン:ところがどっこい、石川にとっては江戸の俳諧文学こそ、近代において支配的になった写実的リアリズムのあり方を批判するための見本となるものだったのですよ。
美佐子ちゃん:そうなんですか? 「江戸人の発想法について」という評論の中では、近代文学については一言も触れられていなかったと思いますけど……。
モリソン:石川は表面に書かれていることの裏に、大事な主張を潜ませるという手法を常に取るからね。「江戸人の発想法について」がどのように近代文学を批判しているかということに関して言えば、これもまた「媒介」という言葉に集約することができるように思います。世界を何の媒介もなくありのままに描くことができると信じている近代文学の主流派をなした作家達にとっては、言葉は現実を書き写すための単なる便宜上の手段となります。
しかし言葉を常に既存のテクスト、物語、発想法によって媒介されているものと考えている石川にとって、単純なリアリズムは幻想に過ぎません。明治の作家達は自分の生きる現代を何の媒介もなしに描こうとしていますが、江戸の知恵はそれがあり得ないことであるとわかっており、目の前の現実を、既存のストーリー(テクスト、伝説、絵など)というフィルターを通して見ていたのです。石川は、常に無意識に他のストーリーの介入を受ける彼らの芸術の創作過程、世界の認識の仕方に注目し、写実的リアリズムへの対抗としてこの評論を提示したのです。
美佐子ちゃん:ここでもやはり、リアリズム批判、ですか。石川の創作活動は多岐に渡るようで、近代文学への態度という点では一貫しているのですね。
講義を終えて
美佐子ちゃん:今日の内容は難しくて、なんだか頭が疲れました……。ただ、すべての内容が「坪内逍遥以来、日本の近代文学を支配した写実的リアリズムへの対抗」という一点に集約されると考えれば、次に石川淳の作品を読むときに役立ちそうですね。
モリソン:私の博士論文が元になった講義だから、難しい内容になってしまうのはある程度はしょうがないことだと許してね(笑)
ただ、私は、「日本近代文学の主流とされてきた写実的リアリズムは本当に主流なのか?むしろ幻想的作品・象徴的作品の方が沢山あるのではないか?」と疑問に思っているのね。特に戦後となると、リアリズムがむしろマイノリティになり幻想文学の方がメジャーになるのね。漫画・アニメなどの大衆文化の作品を入れるとなおさらそう。
実は私は、いずれはこの疑問を生かして日本近代文学史をゼロから書き直したいなと考えているのです。そうするとこれまでのリアリズム中心主義的な見解がいかに歪んでいるかと見えてくるはずですね。まあ、そんな時間があればね(笑)
美佐子ちゃん:なんだかまた難しそうですが、よほどの自信がおありなのでしょうね!
[執筆者プロフィール] Ryan Shaldjian Morrison(ライアン・シャルジアン・モリソン)
名古屋外国語大学 外国語学部 世界教養学科 専任講師
アリゾナ州立大学、上智大学で修士号を得る。その後、東京大学博士課程で石川淳などの昭和文学を研究。石川淳・古川日出男・高橋源一郎・松田青子・早助よう子など、日本人作家による小説の英訳も多数手がけている。
博士論文は「写実的リアリズムへの対抗言説としての石川淳初期五作品」(「Waves into the Dark: A Critical Study of Five Key Works from Ishikawa Jun’s Early Writings」)
▼「教えて!モリソン先生」過去の連載はこちらから
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初出:P+D MAGAZINE(2016/10/01)