【著者インタビュー】泉 麻人『冗談音楽の怪人・三木鶏郎 ラジオとCMソングの戦後史』/日本のポップカルチャーの元祖、初の評伝!
戦後すぐに自作の曲をGHQ管轄下のNHKに持ち込み、一躍ラジオのスターとなった「トリロー」こと三木鶏郎。日本初のCMソングや「鉄人28号」などのアニメ主題歌も手掛けた日本のポップカルチャーの元祖、初の評伝を紹介します!
【ポスト・ブック・レビュー 著者に訊け!】
日本のポップカルチャーはこの男が作った! 本邦初のCMソングを作った伝説の傑物、初の評伝
『冗談音楽の怪人・三木鶏郎 ラジオとCMソングの戦後史』
1500円+税 新潮社
装丁/新潮社装幀室
泉 麻人
●いずみ・あさと 1956年東京生まれ。慶應義塾中・高、同大商学部を卒業後、東京ニュース通信社入社。『週刊TVガイド』編集部等を経てコラムニストに。著書に『ナウのしくみ』『東京23区物語』『B級ニュース図鑑』『けっこう凄い人』『お天気おじさんへの道』『東京ふつうの喫茶店』『東京考現学図鑑』『大東京23区散歩』『僕とニュー・ミュージックの時代』等。来年は1964年に関する新刊を予定。「東京五輪本というより、その時代の個人的社会史です」。173㌢、65㌔、O型。
ラジオ番組の構成やコミックソングなど日本流ポップの源流を知る面白さがある
いかにも東京っ子らしい感性や
泉麻人著『冗談音楽の怪人・三木鶏郎』は、三木や著者にとっても初の評伝。終戦まもない46年、三木は自作の曲「南の風が消えちゃった」をGHQ管轄下のNHKに持ち込み、数日後には番組を任されることに。
その曲調は総じて明るく、ポップそのもの。それこそ〈私はこの誰もいない、なにもない焼け跡の雰囲気を馬鹿に明るく感じた〉と自著に書いた彼を、泉氏は敬愛をこめて〈トリロー〉と呼ぶ。
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1956年生まれの泉氏にとって1914年生まれの三木鶏郎、本名・繁田裕司の初期作品は、必ずしも懐かしい対象ではない。
「僕自身のトリロー体験は63年の『鉄人28号』の主題歌からですからね。それが大学の広告サークルに入った後に、♪ジンジン仁丹〜とか、弘田三枝子の♪アスパラでやりぬこう〜とか、無意識に歌ってきた音楽と作者が一致しました。最近は自分が生まれる前の昭和20年代くらいまで興味の幅が広がりつつあるんです。
特にNHKのラジオしかない時代に時事風刺をやる娯楽番組があったことは、戦後史として見おとせない。現に『フラフラ節』であの吉田茂を散々おちょくった彼らは当局に睨まれ、『冗談音楽』は52年に一度打ち切りになるのですが、すぐにタイトルを変えて復活するほど人気もあった。学生時代の永六輔や川上弘美さんのお父さまが熱心に番組を聞いてコントを投稿していた。また、トリローの元秘書は野坂昭如で、門下生には、伊藤アキラ、いずみたく、短期間ながら五木寛之もいる。役者としても中村メイコに楠トシエ、河井坊茶や三木のり平、有島一郎や左とん平まで、錚々たる人材を輩出しているのも、トリローグループのスゴイところなんです」
復員早々、楽団を組んでキャンプを回り、
泉氏は日本橋・村井銀行の地下にあったというその店を古地図に探し、現地を歩いた結果、それが東洋軒の支店であると特定。古い映画に偶然映り込んだビルのテナント名や新聞の縮刷版に載ったコラム記事から過去への推理を膨らませるなど、
「天皇の料理番・秋山徳蔵も料理長を務めた東洋軒の支店で、トリローは好物のアスパラやフルコースに舌鼓を打つ、お坊ちゃまだったわけです。明治の煙草王・村井吉兵衛が専売制導入後に銀行を創業し、東洋軒を誘致したことが彼を音楽の道に導くのも何かの因縁でしょう。陸軍の同期に東急の五島昇がいたり、人脈や地縁をあれこれ推理しながらトリローゆかりの町を歩くのも、散歩好きにはたまらないんです。
トリロー売り出し中の頃に、上の世代の井伏鱒二や内田百閒と鼎談して〈アプレゲール〉呼ばわりされるエピソードがあるのですが、そんな一件にふれながら、僕が80年代の頃に『新人類』として野坂昭如さんの対談に呼ばれていじられたことをふと思い出しました」
地を見せない東京の音楽人
『冗談音楽』から生まれたヒット曲「僕は特急の機関士で」や、♪キリンレモン、♪クシャミ三回ルル三錠といったCM。ディズニー作品の日本語版や『トムとジェリー』の主題歌も手がけた三木の仕事はそのまま、現代に繋がっているという。
「僕が子供の頃好きだったクレージーキャッツのコント番組なんかもトリローのラジオ番組の構成が原点なんじゃないかな。コミックソングも含めて、そういう日本流ポップの源流を知る面白さもあった。
ソフトばかりでなく、ハードな機械にも明るいトリローは、東京通信工業時代のソニー・盛田昭夫&井深大コンビと『下町ロケット』的なノリで意気投合したり、小林一三に目をかけられて宝塚のショー演出を任されそうになったり、人脈の幅も広い。晩年は糖尿病もあってハワイの別荘で悠々自適に暮らし、かと思うとその闘病生活自体を
かつて焼け野原に明るさを感じたと書いた三木に、変化を恐れず、むしろ楽しむ東京人として、泉氏はシンパシーを覚えるという。
「『南の風……』にしても、戦後の虚無感を歌いながら、曲調はメジャーなんですよ。それを市ヶ谷の堀端に建てた自称〈トリ小屋〉で書き、30代でデビューした彼は、今回取材した方々にも酔ってくだを巻いたりする姿は一切見せなかったらしく、どこまでも上品で洒落てて、地を見せない、東京の音楽人だったんだと思います」
洒落る。茶化す。笑いには必ず毒をまぶす。そんなポップで粋な人生の作法を、ぜひ令和にも引き継ぎたい。
●構成/橋本紀子
●撮影/三島 正
(週刊ポスト 2019年6.28号より)
初出:P+D MAGAZINE(2020/01/04)