原田ひ香『喫茶おじさん』
小説『喫茶おじさん』ができるまで
意外とよくあることなのですが、こちらの原稿を書き始める直前まで、私はまったく別の内容の小説を書こうと思っていました。
ところが、私は出会ってしまったのです。喫茶店に。運命の出会いでした。
BSの番組をなんとなく観ていたら、お笑いコンビ「ずん」の飯尾和樹さんが喫茶店をめぐる番組をやっていらっしゃった。画面の中のコーヒーとおじさんはとても魅力的でした。
最初に思ったのは、私も喫茶店めぐりをしたい、というもので、小説に結びつけてはいなかったのです。ただ、私もそれなりに多忙の身、毎日、小説をこつこつ書くばかりで、特に予定がない限り、自分の街から出ることがほとんどありません。
行ってみたい喫茶店はいくつもあるのに、訪れることができないもどかしさ。
それで、「いっそ、喫茶店を小説にしてしまったら、好きなだけ回ることができるのではないか」と気がついたのでした。
結果は上々、たくさんの未知の喫茶店を訪れつつ、松尾純一郎というある種の「困った人」を描くことができました。
純一郎は私より少し年上、いわゆるバブルを経験した世代で、優しいし、ちょっと男前だし、憎めない人なのですが、どこか少し抜けている。そして、自分の大切な「何か」がわかっていない……。
自分が現代社会をすべて知っているとは思っていませんが、最近のSNSなどを見るにつけ、皆、「すごすぎる」。サラリーマンとしてしっかり働きながら、自らを高めるための勉強をし、家事をし、子育てをし、その上で、節約もし、投資もし……。本当に頭が下がります。
良くも悪くも、純一郎のような、一生懸命働いたと自分では言い張りつつ、ただ、会社の仕事だけして歳を取ってしまった、そんなサラリーマンはもう、これが最後の世代になるのではないか、そんな気持ちで書きました。
たくさんの喫茶店を訪れることができましたが、その中でも印象に残っている店をいくつか。
「銀座カフェーパウリスタ」は現存する日本最古の喫茶店と言われてます。でも、キッシュとサラダとケーキ、それにコーヒー二杯ついて二千円ほど。これをゆっくりおしゃべりしながら食べると、ゆうに二時間は超えてしまいます。一等地でこれは安い。もちろん、味はすべて一級品です。上野の「アメ横ダンケ」は最初にこの小説を書こうと思ったきっかけになった店です。カウンターのみで行列必至ですが、ここのバターをしみこませた豆で淹れたコーヒーとチーズケーキはぜひ、味わっていただきたいです。
それから、昨年の秋には京都に訪れました。まだ、コロナが収まる少し前で、どこも空いていてよかったのですが、八時を過ぎると店がどこも開いていなくて本当に困りました。取材をしていたら夕飯を食べる店がなくなってしまって、四条河原町で唯一開いていたチェーン系コーヒー店のサンドイッチをひとりぼっちでかじりました。早々と閉めてしまった店が並ぶ通りはどこか暗く、京都がまだ「明けてない」のを感じました。
日本中どこでも食べられる味です。 でももしかしたら、今一番、思い出に残っている味かも知れません。
原田ひ香(はらだ・ひか)
1970年神奈川県生まれ。2005年「リトルプリンセス二号」でNHK主催のラジオドラマ脚本懸賞公募最優秀作に選出され、07年「はじまらないティータイム」ですばる文学賞を受賞。著書に「ランチ酒」「三人屋」などのシリーズ、『母親ウエスタン』『三千円の使いかた』『DRY』『まずはこれ食べて』『口福のレシピ』『財布は踊る』『老人ホテル』『図書館のお夜食』など。
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著/原田ひ香