◎編集者コラム◎ 『緑陰深きところ』遠田潤子

◎編集者コラム◎

『緑陰深きところ』遠田潤子


『緑陰深きところ』写真
本書のもうひとつの主役、コンテッサ(のミニカー)と。

 俳句に「聖五月」という季語があります。カトリックで五月は「マリアの月」「聖母月」とされており、そのため季語に採用されるようになったとか。遠田潤子さんの『緑陰深きところ』にはカトリックこそ登場しませんが、文庫化にあたりイラストレーターのしらこさんに描いていただいた装画を拝見し、真っ先に浮かんだのはこの「聖五月」という言葉でした。

『緑陰深きところ』は令和元年五月のある一週間の物語です。主人公は七十歳を超える頑固な独居老人、三宅紘二郎。彼の兄は五十年前、一家心中を図り、妻と義父、娘を殺害しました。実は妻・睦子と想い合う仲だった紘二郎は、あるきっかけから封じ込めていた怨みが噴出、人生の終盤を迎えた今、兄に対峙し復讐することを誓うのです。大阪から兄のいる大分・日田へは、思い出の車・コンテッサで向います。道中、無一文の若者・リュウと出会った紘二郎は、成り行きから彼を運転手に雇うことに。老人と謎の青年、そしてポンコツ旧車の一週間の旅。抗いようのない苛烈な運命と、それを背負いながらも少しずつ心を通わせる男たちの不思議とあたたかな関係が、本書の読みどころのひとつです。

 装画に描いていただいたのは、作中のあるシーンです。タイトルの通り「緑陰」の深い森に差しこむ一条の光。その神聖な光景は、何度読んでも心が震えます。本書を閉じたあと、じっくり装画を眺め、心に湧き上がるものを味わっていただきたいです。

 ところで個人的な話で恐縮ですが、本書単行本の編集作業中に私の母が病を得、発売して間もなく他界しました。『緑陰深きところ』は、登場人物たちがさまざまな「死」を見つめ、それぞれの答えを得ていく物語でもあります。それは身近な人の最期に動揺する私を、確かに励ましてくれました。忘れられない作品ですし、このとき、私の小説観や仕事観はアップデートされました。

 また、文庫化に際し、改めて校正者さんに読んでもらいました。単行本編集時と同じ校正会社さんに依頼したのですが、担当者からの返信メールに「折に触れ、思い出す作品です」という一文がありました。

 どうやら本作は、いちど読むと心に沁み込み、静かに根を張るようです。そこから芽生えたものがやがて大樹となり森となって、心を満たす。読者のみなさまにも、そんな思いを味わっていただけたら嬉しいです。

──『緑陰深きところ』担当者より

緑陰深きところ
『緑陰深きところ』
遠田潤子
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