【2021年本屋大賞全作レビュー】町田そのこ『52ヘルツのクジラたち』の魅力

2021年本屋大賞は、町田そのこさんの『52ヘルツのクジラたち』が受賞しました! 大賞受賞作の読みどころはもちろん、惜しくも大賞を逃した候補作を含むノミネート作全10作品のあらすじとレビューをお届けします。

2021年4月14日に発表された「2021年本屋大賞」。町田そのこさんの『52ヘルツのクジラたち』が見事受賞しました。

同作は、幼い頃に母親からネグレクトを受けて育った主人公と、いままさに親に虐待をされている少年が出会い、徐々に心を通わせていくまでを描いた物語です。虐げられている人が上げる声を、誰にも聞こえないほどの高音域で鳴く“52ヘルツのクジラ”に例え、助けを求めることのできない人たちをやさしく掬いあげようとする、切実な作品です。

『52ヘルツのクジラたち』のほかにも、魅力的な作品が数多く揃った2021年本屋大賞の候補作。P+D MAGAZINE編集部では、受賞作の発表前に、ノミネート作全10作品の徹底レビュー&受賞予想をおこないました。

果たして、受賞予想は当たっていたのでしょうか? そして、惜しくも大賞受賞を逃した作品の魅力とは?

1.『犬がいた季節』(伊吹有喜)


出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4575243256/

『犬がいた季節』は、『四十九日のレシピ』や『カンパニー』などの代表作を持つ小説家・伊吹有喜ゆきによる長編小説です。

物語の舞台は、三重県四日市市にある県内有数の進学校「ハチコウ」こと、八稜高校。1988年の夏のある日、ハチコウの校庭に、1匹の子犬が迷い込んできます。

「おいおい、危ねえな、この犬、線路に入ろうとしてるぞ」
「子犬? 子犬にしてはちょっと大きいかな」
女があごの下をくすぐった。その手のやわらかさに、わずかに尻尾を振る。
「おっ、ここハチコウか。ちょうどいいや、ここに入れとけ」
「たしかに安全」
地面に下ろされると、大勢の人の匂いがした。

プードルとダックスフントがかけ合わさったような、白くてふわふわのその犬。始めは迷い犬として保護されていましたが、引き取り手が現れず、やがて「コーシロー」と名づけられて高校で飼われることになりました。

本作は、コーシローがやってきた1988年の物語の始まりから、「ハチコウ」を舞台に、1991年、1994年、1997年、1999年という5つの世代の高校生たちの青春を連作として描きます。作中に登場するのは、目の前の悩みや課題、夢に正面からぶつかりもがき続けるさまざまな10代。ある高校生は「女の子は勉強ができなくていい」と縛りつけてくる両親に反抗し、またある高校生は自転車で鈴鹿サーキットを目指してちょっとした“冒険”をしたりと、時代が昭和から平成に変われど、若者たちの挑戦や葛藤は続いていくことが描かれます。そして、どの世代の高校生たちのそばにも、犬のコーシローがいるのです。

本作は、コーシローに会いに母校に帰ってくる卒業生たちの視点と、すこしずつ年老いていくコーシロー自身のふたつの視点を通して進んでいきます。犬を飼っていたことがある人、犬好きな人にとっては手放しでおすすめするのはもちろん、あたたかい気持ちになれる王道の青春小説を読みたい方にはぜひ手に取っていただきたい1冊です。

2.『お探し物は図書室まで』(青山美智子)


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『お探し物は図書室まで』は、『木曜日にはココアを』などのベストセラーのほか、『私が恋愛できない理由』や『あなたのことはそれほど』といった数々のドラマ作品のノベライズを手がけてきたことでも知られる小説家・青山美智子による連作短編小説です。

主人公は、スーパーの婦人服販売の仕事に未来を感じることができず悩んでいる朋香や、脱サラして雑貨店を始めたいと思っているものの思い切りがつかない諒、定年退職を迎え今後の人生のことを考え始めた正雄──など、境遇も年齢もばらばらの5名です。

5人の主人公たちが訪れるのは、町の小さな図書室。狭いレファレンスカウンターのなかには、羊毛フェルトでなにかをちくちくと縫っている大柄な司書・小町さんがいました。小町さんは無愛想ながらも不思議と聞き上手で、主人公たちは探している本の要望に加え、なかなか打ち明けることのできなかった悩みや願望を小町さんについ話してしまいます。

彼ら・彼女らの言葉を聞いて小町さんが選書するのは、『ぐりとぐら』といった絵本や図鑑、詩集など、一癖ある本ばかり。しかも、本を貸す際に小町さんは“本の付録”として、自身で縫った羊毛フェルト作品を添えてくれるのです。

相談者が本を返却する際、小町さんに感想を伝えると、小町さんはこう言葉を返します。

「どんな本もそうだけど、書物そのものに力があるというよりは、あなたがそういう読み方をしたっていう、そこに価値があるんだよ」

5人の主人公たちは、自分が読んだ本はもちろん、小町さんの言葉と“付録”にも力をもらい、すこしずつ前進していくことを決めるのです。

ドラマの主人公ではなく、“エキストラ”としてほとんど注目もされない人々の姿を描きたいという青山美智子。そのやさしい視点が端々に感じられる、読後、つい町の図書館や図書室に足を運びたくなること間違いなしの1冊です。

3.『推し、燃ゆ』(宇佐見りん)


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『推し、燃ゆ』は、2019年に『かか』で第56回文藝賞、第33回三島由紀夫賞を受賞しデビューした小説家・宇佐見りんによる小説です。本作は2020年の第164回芥川賞も受賞し、宇佐見は綿矢りさ、金原ひとみに次ぐ史上3番目の若さの受賞となったことも大きな話題を呼びました。

本作の主人公は、“推し”であるアイドルの青年・真幸を追いかけることに生活の全エネルギーを注いでいる高校生のあかり。あかりは真幸のライブや動画配信、ラジオや雑誌の出演などをひとつ残らずチェックし、彼についての考察ブログを書く毎日を送っていました。しかしある日突然、真幸が「ファンを殴った」という想像もつかなかったニュースが飛び込んできます。物語は、

推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。まだ詳細は何ひとつわかっていない。何ひとつわかっていないにもかかわらず、それは一晩で急速に炎上した。

という衝撃的で引き込まれる一節から進んでいきます。
結局、真幸がファンを殴ったかどうか、そうだとしたらなぜだったのか──という理由や経緯が詳しく明かされることはありません。しかし真幸はこの騒動がひとつの引き金になり、最終的にはアイドルの引退という決断をすることになります。

一連の“炎上”を経て大きく生活が変化していくのは、あかりも同じです。勉強もできず、バイトでもそつなく振る舞うことができず、家に帰ってもしっかりしている妹と自分の差を常に見せつけられてしまうあかりには、心を落ち着けることのできる場所がありません。唯一すべてを忘れて夢中になることができる時間だった“推し”を推している時間を失うまでの日々、そして失ったあとの強い喪失感が本作では描かれます。

“推し活”をテーマにしたというキャッチーさで注目を集め続けている本作ですが、それだけではなく、あかりという少女の社会性のなさからくる生きづらさ、そして自分自身や環境のままならなさを『推し、燃ゆ』は限りなくリアルに描きます。夢中になったことのある“推し”がいる方だけでなく、あかりと同世代の方や自分自身のままならなさに悩んだことのある方には、ぜひ読んでほしい傑作です。

4.『オルタネート』(加藤シゲアキ)


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『オルタネート』は、アイドルグループ・NEWSのメンバーでもあり、2012年からは小説家としても活動している加藤シゲアキによる長編小説です。本書は本屋大賞ノミネートのほか第42回吉川英治文学新人賞を受賞しており、第164回直木賞の候補作にも選ばれるなど、多方面から高く評価されています。

高校生たちの群像劇である本作ですが、主な登場人物は、調理部の部長を務める高校3年生の新見蓉、蓉と同じ高校に通い、自分の理想の恋愛を追い求めている1年生の伴凪津、大阪の高校を中退し、音楽家になる夢を追いかけようとする𪲨丘尚志という3名です。

彼らが生きている現代では、「オルタネート」という名前の高校生限定のマッチングアプリが大流行しています。彼らは「オルタネート」をLINEのように気軽に使用して友達同士でメッセージを送り合うこともあれば、ときには恋人を探すためにも利用します。

特にマッチング機能に重きを置いて「オルタネート」を利用しているのが、1年生の凪津。彼女は自分自身の家庭環境の影響もあり、“真実の愛”を追求したいと考えています。凪津は、「オルタネート」の新機能としてリリースされた“遺伝子レベルで相性のいい相手とのマッチング”に期待をかけてアプリを信奉しています。

「お互いの利害が完全に一致していて、二人の人間性のいびつな部分でさえぴしっとはまる、その人以外いないというような相手。そんな人がいれば、ずっと一緒にい続けられると思うんです(中略)オルタネートみたいな、膨大なデータを利用したAIなら、かなり近いところまでいけると思いませんか? 長く続いた夫婦の傾向は人間よりAIの方が知ってるはずです」

そう話す凪津は、「オルタネート」を通じて出会った相性のいいはずの相手とお茶をしますが、どうしても会話が盛り上がらず、好意も湧いてきません。凪津が恋愛に悩んでいるちょうどそのころ、蓉や尚志たちもまた、自分自身の夢や課題のために頭を悩ませていました。

本作は、アプリを通じた絆の脆さや危険性に警鐘を鳴らす小説ではありません。「オルタネート」というアプリは本作の登場人物たちをつなぐひとつのモチーフに過ぎず、作中で描かれるのはむしろ、10代の若者たちのリアルな葛藤という非常に普遍的なテーマです。

これまで加藤シゲアキ作品を一度でも読んだことがあったり、デビュー以来追ってきたという読者であれば、これまでの集大成の如く緻密に練り上げられた本作の高い完成度に驚かされるはず。王道の青春小説として、加藤の代表作になること間違いなしの1冊です。

(合わせて読みたい:【直木賞&本屋大賞ノミネート】加藤シゲアキのおすすめ作品3選

5.『逆ソクラテス』(伊坂幸太郎)


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『逆ソクラテス』は、『重力ピエロ』『ゴールデンスランバー』といった数々の代表作を持つ人気小説家・伊坂幸太郎による短編小説集です。2020年にデビュー20周年を迎えた伊坂は、多種多様なサスペンスやエンターテインメント小説で読者を楽しませ続けている、本屋大賞ノミネートの常連でもあります。

収録作品は表題作のほか、『スロウではない』『アンスポーツマンライク』『非オプティマス』『逆ワシントン』の5作。どれも小学生を主人公とする短編ですが、表題作の『逆ソクラテス』は、大人に立ち向かう子どもの勇気と友情を描いた非常に真っ直ぐな作品です。

物語の発端は、クラスメイトの草壁という男子のピンク色の服を見て、教師が「女みたいだ」という差別的な言葉を浴びせたことでした。それを聞いた加賀と安斎は、教師が草壁を一方的に見下しているひどい状況を変えたいと思い、教師が草壁に対して抱いている先入観を取り払おうと、さまざまなしかけを施します。加賀は、理不尽なことを言われたり自分の意に反することを言われたら、「僕はそうは思わない」とはっきりと主張していいのだ、そうすれば負けることはない──ということを安斎から聞かされ、そのとおりだと感じます。

加賀と安斎が教師の先入観を取り払おうと起こす行動は、決して褒められるものばかりではありません。カンニングをして草壁にテストで100点をとらせたり、人気者の女子に「草壁に助けてもらった」という嘘の噂を流してもらったりと、ふたりは試行錯誤します。教師は草壁が自分の力でそれらの評価を得たのではないことを見抜いており、「お世辞を真に受けるな」と言い放ちますが、草壁は物語の最後に

「僕はそうとは思いません」

と控えめに言い、初めて教師に反抗するのでした。
伊坂幸太郎節が全開の『逆ソクラテス』のほか、本書に収められている作品はどれも、弱い立場でいるのを余儀なくされている人たちのささやかな“復讐”や、人にはそれぞれの立場があるということを、決して教訓的にではなく、一流のエンタメとして描いています。すこしひねくれた人間賛歌のような、読後感の爽やかな伊坂作品が好きな方は、間違いなくどっぷりとはまってしまうであろう1冊です。

6.『この本を盗む者は』(深緑野分)


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『この本を盗む者は』は、緻密なストーリー構成を特長とするミステリ作品を数多く手がけてきた小説家・深緑野分ふかみどりのわきによる長編小説です。2019年には『ベルリンは晴れているか』で本屋大賞の第3位を獲得したほか、第160回直木賞、第21回大藪春彦賞候補にもなり、第9回Twitter文学賞では国内編第1位となり注目を集めました。

本書の主人公は、書物の蒐集家を曾祖父に、巨大な書庫「御倉館」の管理人を父に持つ本嫌いな高校生・深冬。ある日、御倉館から本が盗まれるという事件が起こり、御倉館を訪れていた深冬は、館に残されていたこんなメッセージを目にします。

この本を盗む者は、魔術的現実主義の旗に追われる

そのメッセージに気味の悪さを感じた次の瞬間、深冬の体を風がさらい、彼女は本棚の前に倒れ込んでしまいます。立ち上がろうとすると、深冬の前にはあどけない顔をした少女が立っていました。彼女は深冬に、こう言い放ちます。

「帰れないよ」
「どういう意味?」
「そっちからは帰れないの。泥棒が来て、呪いが発動したから」
「泥棒? 呪い? 何言ってんの?」
「信じて。深冬ちゃんは本を読まなくちゃならない」

本を手に取るだけで嫌悪感が湧くほど本嫌いな深冬でしたが、なぜかそのとき指し示された『繁茂村の兄弟』という本は、自ら読み進めたいと思ってしまいます。本をしばらく読んで顔を上げると、なぜか景色が一変し、目の前には雄鶏や雌鳥が歩いていました。少女は深雪に、いま“呪い”が発動し、深雪の街は“繁茂村”の世界に変わってしまった。深冬が館の本を盗んだ泥棒を捕まえない限り、この呪いは消えない──と告げるのです。深冬はわけもわからないまま、さまざまな本の世界を冒険していくこととなります。

この冒頭部分だけで、ファンタジー好きの方であればワクワクと心が躍るのではないでしょうか。作中で描かれる本の世界はスチームパンクやハードボイルド、ホラーにマジックリアリズムと、ジャンルを自由自在に横断します。さまざまな世界がどれも不思議なリアリティと躍動感を持って迫ってくるのは、深緑野分の緻密かつダイナミックな文体あってこそ。極上の読書体験が味わえ、何冊もの本を読んだあとのような気分になれる1冊です。

7.『52ヘルツのクジラたち』(町田そのこ)


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『52ヘルツのクジラたち』は、小説家・町田そのこによる、大分の小さな海辺の街を舞台にした長編小説です。

主人公は、幼少期に母親からネグレクトを受け、“搾取”され続ける人生に疲れてしまった貴瑚という女性。大分にひとりで移住してきた彼女は、田舎の空気にもしだいに馴染んでいきますが、ある日、ボロボロの衣服をまとい痩せきった体の、ひとりの少年に出会います。彼は母親から虐待を受け、「ムシ」と呼ばれていました。そんな彼の姿に子ども時代の自分が重なった貴瑚は、どうにかして彼を助けたいと思います。しかし、少年は感情をなくしきった様子で口をきかず、名前もわかりません。貴瑚は、ふつうのクジラが10~40ヘルツ程度の周波数で鳴くことで仲間とコミュニケーションを取り合っているのに対し、世界で1頭だけ、52ヘルツという高音域で歌うクジラがいるという話をします。

「わたしも、昔52ヘルツの声をあげてた。(中略)わたしは、あんたの誰にも届かない52ヘルツの声を聴くよ」

そう決意して、少年をひとまず「52」という名前で呼び始めた貴瑚。ふたりはすこしずつですが距離を縮めていきます。

物語のなかで並行して描かれるのが、貴瑚のあまりにも過酷な生い立ちと、そんな彼女を惟一助けてくれたアンさんという人物の存在。貴瑚はアンさんに出会ったことで初めて自分を尊重し、自立という道を選べるようになります。

虐待やネグレクトという社会問題をテーマにしている本作には、読んでいて思わず目を覆いたくなってしまうような表現もあるかもしれません。しかし、成人女性とひとりの少年が出会い成長していくという物語をファンタジーとしてではなく、直面するであろう現実的な諸問題も含めて、非常に真摯に描いています。自分自身が傷ついたことをきっかけに他者を守りたいと思うやさしく切実な気持ちを描いた、必読の1冊です。

8.『自転しながら公転する』(山本文緒)


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『自転しながら公転する』は、『恋愛中毒』『プラナリア』などの数々の代表作を持つベテラン作家・山本文緒による長編小説です。

本作の主人公は、30代の都という女性。彼女は母親の介護のために東京での仕事を辞め茨木県の牛久に戻り、契約社員としてアウトレットで働いています。周囲の同世代の友人たちは東京で仕事に精を出したり、結婚・出産を経験したりしているのに、都は頼りがいのない彼氏との未来も見えず、介護・仕事を両立させることの難しさに直面します。

作中の都をめぐる状況はどれも、ゾッとするほどリアルです。都の仕事を軽視し、母親のために娘であれば仕事を辞めるべきだと説得する父親や、周囲の友人たちと自分の境遇を比べ、「私はこれからどうすればいいの?」と葛藤する都自身の様子には、思わず怒りを覚えたり、強く共感させられてしまいます。

都と同世代の女友達は、30代の女性を取り巻く恋愛について、こんな風に形容します。

「自分の人生を思い通りにするために、パートナーを物みたいに条件で選んでるじゃないですか。たとえばカーテンを買うみたいに、これは安いけどペラペラで、あれは遮光性があるけど高くって、一番コスパがいいのはどれかしらって」

山本文緒は、仕事や結婚・出産、そして親の介護という多すぎるライフイベントを前に、ただ“好き”というシンプルな気持ちだけでは恋愛ができなくなってくる、この世代の女性の心境を細やかに描きます。タイトルの“自転しながら公転する”という言葉が表すとおり、ただ生きているだけでさまざまな振る舞いや役割を求められ続ける日常のしんどさを、本作は真正面から捉えています。都と同じような境遇で悩んでいる方や仕事や介護に疲れた方にこそ読んでほしい、共感度の高い1冊です。

9.『八月の銀の雪』(伊与原新)


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『八月の銀の雪』は、地球惑星物理学の研究者から作家へ異色の転身を遂げた、伊与原新いよはらしんによる短編小説集です。些細なことで“科学”の不思議と出会った登場人物の日常生活に小さな変化が訪れた瞬間を、淡々とした筆致で描きます。

表題作の『八月の銀の雪』の主人公は、理系大学生・堀川。彼は人見知りで、就活に連敗し自暴自棄になりかけていました。そんなある日、近所のコンビニエンスストアでアルバイトをしているベトナム人女性のグエンと知り合います。グエンのぎこちないレジ打ちの手つきに内心いつも苛立っていた堀川でしたが、堀川はグエンの専門だという地球の地殻やコアについての話を彼女から聞いたことで励まされ、すこしだけ就活に前向きになります。

また、毎日無力感に襲われ、娘との関わり方に悩んでいるシングルマザー・野村が主人公の『海へ還る日』では、野村は国立自然史博物館に勤める女性から深海にまつわる話を聞いたことで、代わり映えのない日常を新たな視点から見られるようになります。作中では、イルカの研究をする学者が、イルカの知能は人間が考えているほど高くないという説について問われ、こんなふうに言葉を返すシーンがあります。

知能テストなんてものは所詮、我々人間が「これが知性だ」と勝手に思い込んでいるものを測る手段に過ぎない。そんなもので彼らの頭の中を評価しようなんて、傲慢じゃないかとね。そもそもクジラやイルカが何を思い、どんなことを考えているのかは、我々には絶対にわからないわけですから

本書に収録されている作品はどれも、科学との小さな出会いをひとつの起点に、人の心に希望が灯る瞬間を描いています。ドラマチックなストーリーや魔法のような科学の話は一切登場しませんが、人が生きていく上で心の拠りどころにするささやかな宝物を知ることができるような、愛おしく繊細な作品集です。

10.『滅びの前のシャングリラ』(凪良ゆう)


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『滅びの前のシャングリラ』は、小説家・凪良ゆうによる連作短編集です。凪良は2020年に長編小説『流浪の月』で本屋大賞を受賞。2年連続のノミネートも、大きな話題となりました。

物語の舞台は、1ヶ月後に小惑星が地球に衝突するということが突如宣告された現代。倫理観を失った人々によって荒廃していく世界のなか、「人生をうまく生きられなかった」と感じている4名の人物が主人公となり、ストーリーが展開していきます。

収録作『シャングリラ』の主人公は、人見知りが激しく、同級生からいじめをうけている高校生の友樹。本作は、こんな衝撃的な一文で幕を開けます。

江那友樹、十七歳、クラスメイトを殺した。

友樹は、学校一の美少女である幼馴染の雪絵に密かに恋心を抱いていました。そんなある日、地球の余命を知った雪絵は、かねてからファンであったアーティストのライブに行くために、東京に行きたいと計画します。そんな雪絵を東京まで送ると言って名乗り出たのは、友樹をいじめていた井上でした。不安に思った友樹は、こっそりとそのあとをつけることにします。

“お母さん、ごめん。ぼくは今、息子ではなく騎士なのです”とひとりつぶやく友樹。新幹線の途中駅で、雪絵を襲おうとした井上への怒りが止まらなくなった友樹は、咄嗟に井上を殺してしまいます。そして、友樹と雪絵はふたりで東京を目指します。

人類が滅亡する前に人はなにを思い、どう行動するかという、いうなれば王道のテーマを描く本作。荒廃し大きく姿を変えていく社会の様子に反し、作中でスポットライトが当てられるのは、ドラマチックな決断をした人々ではなく、うまくいかなかった日常の延長にあるささやかな変化です。これまで『流浪の月』や『わたしの美しい庭』などの作品でも、人と人との関係性の美しい面とそうでない面を赤裸々かつ繊細に描いてきた凪良らしい、息苦しさのなかにも希望を感じさせるような作品集です。

はたして、本屋大賞はどの作品に?

例年、王道のエンターテインメント小説から骨太な歴史小説、ミステリ、ときにはホラー……といったさまざまなジャンルの作品が顔を並べるノミネート作ですが、今年は現代のリアルな社会問題やささやかな日常を正面から描いた、多くの人々の共感を集めるような小説が集まりました。

なかでも異色の読書体験を味わわせてくれたのは、深緑野分の『この本を盗む者は』。さまざまなジャンルを横断し、本当に本の世界に飛び込んでしまったのではないかと錯覚するほどの臨場感は、書店員からも広く支持を集めそうです。

しかし、大賞予想の本命は、山本文緒の『自転しながら公転する』でしょうか。同世代で、この本をまったくの他人事と思って読める人はいないのではないか──と感じさせるようなリアリティと赤裸々な心境の描写は、多くの人を惹きつけるはずです。

今年の本屋大賞の発表は、4月14日。いまから発表の日が待ちきれません!

初出:P+D MAGAZINE(2021/04/14)

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