ハクマン 部屋と締切(デッドエンド)と私 第7回
何せ、漫画をはじめとするクリエイティブ産業は「見た人間の解釈に任せる」という暴力が許されてしまっている世界なのだ。
病院で医者が「この手術が成功かどうかは患者の解釈に任せる」とか言い出したら一大事である。
だが何故か、この世界だけは「拙者が思うに人類補完計画というのは…」と作り手の行き届いてない部分を、金を払っている客の方が完結させてくれる上に、それがまた一つの楽しみとさえ思ってくれるという、己のことながら「こいつらをそんなに甘やかさない方が良いですよ」としか言いようのない優しい世界が成り立ってなくもないのである。
なくもない、と言うのはもちろん「こいつ何も考えてないだろ」というのが頻繁にバレるからだ
よって、自分が納得いってないものでも、出してしまえば「おもしろい」と独自の解釈をしてくれる読者がいるかもしれないのだ。
ならば落とすより、そっちのワンチャンに賭けた方が良い。載らなければノーチャンだ。
だが志と収入が高い作家は、己の納得がいかないものを載せるぐらいなら、落とした方がマシと考えるのだろう。だが己の納得と読者の納得が必ずしも一致するとも限らない。だったらとりあえず世に出すことを優先した方が良いだろう、というのが私の考えだ。
もちろん、遅筆かつ寡筆だが、出すものは百発百中面白いという作家もいるので、どちらが良いとも言い切れない。
そんな全ての元凶である「ネタだし」だが、常に詰まっているというワケではなく「次から次へと描きたいことが湧いて出る」という確変状態になることも稀にある。
これは作家がノっている状態の時だが、何が作家をノらせるかというと、やはり読者の声ではないだろうか。
プロに限らず、創作をやる者にとって「読者の感想」が如何に大事かという話である。
私の場合「買って燃やしてまた買え」がキャッチフレーズであり、買ってくれれば読まなくても良いと言っている。
その言葉に嘘はない、一番作家に実益があるのは「買ってもらう」ことなので、そこをクリアしてもらえれば後はどうでも良いのだが、二番はやはり「感想」だと思う。
もちろん一番と二番には二兆ポイント点差があるが、それでも嬉しい。
感想がない、つまり誰が読んでいるかもわからない漫画を描き続けるのは苦痛でしかないため、当然ネタも滞るのだ。
逆に「面白かったです」と一言あれば、調子にノッて「じゃあこんなのも描いちゃおうかな?」となってしまうのである。
よって、応援したい作品があるが金はビタイチ払いたくない、という大いなる矛盾を抱えている人は、とりあえずSNSにでも「面白い!」とつぶやいてみることをお勧めする。
本人に直接言う必要すらない。最近の作家はエゴサ―チで仕事が滞るぐらいSNSに張り付いているので、勝手に見つけて勝手に励まされてくれる。
気をつけるのは、エゴサに引っかかるように、作者名か作品名をちゃんと明記することぐらいだ。