滞米こじらせ日記~愛しきダメな隣人たち~ 桐江キミコ 第4話 運転手付きの車④
「南京虫問題」がやっと終結した、
ある平和な週末のことだった──
結局、綾音さんは自腹でチケットを買って帰国することになったのだけれど、その前に、どこでもらってきたのか、体じゅうベッドバグ(南京虫)に刺されて帰ってきた。まずい、と思ったけれど、追い出すわけにはいかない。綾音さんは、南京虫の置きみやげをして日本に帰っていった。
帰国してから綾音さんからの連絡はまたぴたりと途絶えたけれど、南京虫はしっかり居座り、いやはやこれには大変な目に遭った。燻煙(くんえん)殺虫剤──英語で一般的にインセクト・スモーク・ボーム(昆虫噴煙爆弾)という──を3回仕掛けなければならなかった。火事と誤解されないよう、アルバニア人の管理人に念のために言ったところが、英語がよく通じないものだから、爆弾と聞いて彼は大慌てした。しかも、3回目は、家1軒分の噴煙爆弾を部屋中に設置して1週間外泊してやっと退治でき、その間、皮膚科の医者にも通わねばならなかった。半年たっても、嚙(か)まれたあとが残っていた。お嬢さまの綾音さんをあずかるのは、はっきり言って、もうコリゴリだ。
それにしても、綾音さんも、ハーヴェイも、ジャネットも、ますます訳がわからなくなっていく一方だった。3人はほんとに宇宙人だった。ミミズ腫れの引っかき傷を負わされながらも、綾音さんはハーヴェイにファンタジーを抱き続け、ハーヴェイは、周りに人をはべらせて学生時代のコンパみたいなことばかりやり、一番良識のありそうな歯科技師のジャネットも、ハーヴェイをまるで教祖さまのように慕って、すっかり彼の言いなりになっている。
得体のしれない3人を覆っていた謎がするするとほどけていって、やっと彼らがはっきり見えてきたのは、南京虫問題がやっと終結した、ある平和な週末のことだった。ハーヴェイから「アトランティック・シティに来ないか」と珍しく事前連絡があって、出かけた。
ペンシルベニア・ステーションからバスに乗って、いざアトランティック・シティに着いてみれば、ピラピラして金ぴかでエキサイティングでお祭り気分のラスベガスと違って、なんだか活気のない、廃れた薄汚い街だった。ペンシルベニアやコネチカットなど周囲にできた新しいカジノに客足を取られたのだろう。
バスの到着したカジノでハーヴェイとジャネットの2人に合流し、乗車券に付いていた引換券でちょっとだけスロットマシーンをやってから、洞窟みたいに薄暗いカジノの中をいっしょに歩き回ったのだけれど、中もやっぱり、ファンタジーっぽいラスベガスの雰囲気とは裏腹に、一獲千金をねらって目をギラつかせながらギャンブルしている人たちのぎすぎすした空気が漂っているのだった。
やがて、ハーヴェイは、「小腹が空(す)いた」と言って、ブラックジャックのコーナーの裏にある中華のカウンターへと先導して行った。あたりでブラックジャックをやっているのはほとんどが中国人で、長い列に並んで待っている人々のほとんどもやっぱり中国人だった。なんだかマカオのカジノにいるみたいな気分だった。
列に並んで待ちながらジャネットと話しているうちに、綾音さんが言っていた貴賓室とはここのことだったのだということがわかった。綾音さんが粉飾して言ったのか、本気で言ったのか、どちらかはわからない。どちらにしても、貴賓室どころか、だれでもただで中華の軽食が食べられるところで、貴賓室でないことは一目瞭然のところだった。綾音さんの頭の中はいったいどうなっているのだろう。
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