滞米こじらせ日記~愛しきダメな隣人たち~ 桐江キミコ 第5話 鳴きまね名人①
30年以上不法移民として
皿洗いを続ける寅之助さんも、その一人だ。
が、気楽、気ままなその日暮らしには、問題もある。何年か前に、寅之助さんは虫垂炎にかかった。アメリカの医療費はべらぼうに高いから、寅之助さんは我慢に我慢を重ねた。ついに虫垂は破裂して腹膜炎を起こし、寅之助さんは意識を失って病院へ担ぎ込まれた。開腹手術をして入院すること1週間。退院するとき、2千万円の医療費を請求されたが、そんな大金を、皿洗いをしている寅之助さんが払えるわけがない。寅之助さんは、「払えない」と言って帰宅した。払えない寅之助さんは、二度と病院から請求を受けることはなかった。
腹膜炎の手術のあとも、寅之助さんは、タイムズ・スクエア近辺の、きれいとはお世辞にも言えない、くたびれた料理屋の厨房で、毎日、黙々と皿洗いをしている。寅之助さんもやっぱり夢や希望を持ってアメリカに渡ったろうに、生活費を稼ぐために日本料理屋の厨房でもぐりで働いているうち、毎日同じ顔をした生活を繰り返すだけの、気楽といえば気楽な生活から抜け出せなくなったのかもしれないし、やがて、抜け出す意味さえも見出(みいだ)せなくなってしまったのかもしれない。何にしても、寅之助さんは、ずるずると歯車に引き込まれて皿洗いの生活を何十年も続けてきたし、これから先も、体が続く限り、同じ毎日を紡いでいくことだろう。
寅之助さんのことを思うと、ずうっと前に読んだので記憶は薄らいでいるけれど、『ストロベリー・ロード』に出てきた「じいさん」のことを思い出す。10代で船に乗り込んでアメリカに渡ってから、カリフォルニアで、生涯、畑にはいつくばるようにして働いてきた「じいさん」だ。じいさんは、確か永住権も市民権もないから銀行に口座もなく、現金を小屋に貯(た)め込んでいるのだけれど、そうやって何年も何年も働き続けているうちに、しまいに何のために働いているのか、何のために生きているのかもわからなくなっていき、自分でも「つまらん人生よな」と諦めたように言いながら、かと言ってほかに身の振り方もなく、今までやってきたこと、すなわち畑で黙々と働くことを続け、小屋に使い道のないお金を虚(むな)しく貯めていくのだった。たぶん、じいさんだって、若い時分はアメリカに来て、一生懸命働いてお金を貯めて幸せになろうと張り切っていたのだろう。でも、来る年も来る年も畑で泥まみれになって働いているうちに、働くために働く、お金を貯めるために貯める、その繰り返しの人生に閉じ込められ、じいさんはその人生から抜け出せなくなってしまった──人生を生きるのでなく、人生に生きられ、人生の囚人になってしまったのだ。やがて、じいさんは施設に入り、そこで息を引き取り、アメリカの墓地に葬られることになった。
寅之助さんも、『ストロベリー・ロード』に出てくるじいさんみたいに、このまま皿洗いをしながらアメリカに居続け、いつしかひとりで亡くなって、天涯孤独のこのアメリカの地に骨を埋(うず)めるのだろうか。
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