滞米こじらせ日記~愛しきダメな隣人たち~ 桐江キミコ 第5話 鳴きまね名人③

滞米こじらせ日記~愛しきダメな隣人たち~ 桐江キミコ 第5話 鳴きまね名人③

夏になるとニューヨークへやって来る笑田さん。
彼がふにゃふにゃとぼやいた独り言が、
心に突き刺さって忘れられない。


 笑田さんは、夏になると、ニューヨークにやって来た。そのたびにいろいろな不自由が生じて、笑田さんをレスキューすることになった。ステゴザウルス並みのハイテク音痴である笑田さんに、スカイプをダウンロードしてさし上げたときのことだった。笑田さんは、ふにゃふにゃとワケのわからないことをぼやいた。笑田さんはわたしが聞き逃していると思っていたかもしれないが、わたしの耳は聞き逃さなかった。なぜなら、笑田さんは、心に浮かび上がってきたことをそのまま口に出していたのだ、そんなとき、人の心の中の風景がむき出しになるものだ。そして、そんなことばは、軽く聞き逃せるものでなく、否(いや)が応でも、心に突き刺さってくるものだ。 

「ヒトも見たしぃ~、ハトも見たしぃ~」と、笑田さんは、だれに言うでもなく、あさっての方向を向いて、ひとりごちた。「もうこの世で見たいものはないなあ。早く天国へ行って、天国にあるものを見たいよなぁ」

 そんなことを言うものだから、わたしはすっかり悲しくなってしまった。でも、スカイプのダウンロードに夢中で、聞こえないふりをした。

 表面上は楽しそうにしている笑田さんだけれど、心の中には寂しい風が吹いていたのだ。寂しい風が吹いていながら、時々弱気になりながら、それでも、笑田さんはよろよろとなんとか意味のある人生を生きようとしていた。英語の勉強という大義名分のもと、フロリダへも、ロサンゼルスへも、イギリスへも、笑田さんは出かけていった。でも、どこへ行ってもやっぱりひとりぼっちだった。若い、好奇心のある時分ならまだしも、ひとりでは、どこへ行ってもまるで絵葉書でも眺めているようなものだ、ワシントンへ行っても、ボストンへ行っても、サザンプトンへ行っても、フロリダへ行っても、ロサンゼルスへ行っても、イギリスへ行っても、笑田さんは行くだけ行くと、そそくさと帰ってきた。結局はつまらなかったのではないかと思う。最初は世界制覇だとかなんとか言っていたけれど、アメリカに3年だか4年だか夏ごとに来ていた笑田さんは、いつしか来ることをやめてしまった。ニコラスやナタリアや寅之助さんと同じように、アメリカに来ても、いろいろな不自由が増えるだけで、楽しいことなんかなかなかあるものでないし、ましてや、来ただけで人生が変わる魔法なんか起こるものでないということを知ったのかもしれない。場所なんか変えたぐらいで、心の中の風景は変わらない。そればかりか、もっと色濃くなっていく。英語を学ぶこともやがて虚しくなったのか、サボっているようだ。ひとりでがんばるのに疲れてしまったのだろう。

「ヒトも見たしぃ~、ハトも見たしぃ~、もうこの世で見たいものはないなあ。早く天国へ行って、天国にあるものを見たいよなぁ」と言った笑田さんは、心の中にぎゅっと詰めていたものを、ほおっと、まるでタバコの煙をふかすみたいにして、つい、口に出してしまったのだと思う。

 笑田さんは、天国にいる奥さんに会いたいのだ。そして、また奥さんとむつまじく普通の毎日を過ごしたいのだ。自分をひとり残して先に逝ってしまった奥さんを、笑田さんは、恨めしく思っているに違いない。

 目の前に浮かぶ笑田さんは、縁側の日だまりに寝そべっていて、奥さんは、その後ろ姿に「あなたは本当によく寝るのよネエ」と言う。「寝てばっかしで、本も読まない人なのよネエ」とも言う。そして、そう言いながら、奥さんは、笑田さんに毛布をかけてやる。

 奥さんは、本を読むのが好きで、よく読んでいたらしい。そして、ぜんぜん本を読まない笑田さんにあきれていたらしい。奥さんの話をするたび、笑田さんの前を寂しい風がふゎっと過ぎるのが見えた。

 笑田さんは、今ごろ、日本で何をしているのだろう。気楽に温泉旅行でもしていてほしいと思う──そして、それをじゅうぶん楽しめていてほしいと思う。

(「鳴きまね名人」おわり)
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桐江キミコ(きりえ・きみこ)

米国ニューヨーク在住。上智大学卒業後、イエール大学・コロンビア大学の各大学院で学ぶ。著書に、小説集『お月さん』(小学館文庫)、エッセイ集『おしりのまつげ』(リトルモア)などがある。現在は、百年前に北米に移民した親戚と出会ったことから、日系人の本を執筆中。

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