“メタフィクション”って知ってる?小説用語を徹底解説

アニメやライトノベルでも頻繁に用いられるようになった「メタフィクション」。その基礎知識をはじめ、さまざまなパターンで見られるメタフィクションの手法について解説します!

「メタフィクション」という言葉をご存知でしょうか。メタフィクションとは、架空の出来事であるフィクションをフィクションとして扱うこと。小説や映画、アニメなど創作物において、作中であえて「これは作り話である」と表現する手法です。

たとえば、テレビドラマで「すべての真相が分かった」と関係者を呼び出した探偵が急に、カメラに向かって「テレビの前のあなたにだけ、犯人をお教えしましょう」と囁く場面。このように、登場人物が作品を楽しむ私たちに向かって話しかけるのは、メタフィクションの手法のひとつです。

それにしても、探偵はどうしてテレビドラマを観ている私たちに話しかけたのでしょうか。それは、探偵が“自分自身が物語の登場人物であること”、“物語の中にだけ存在する、虚構の存在であること”を自覚しているため。本来であれば、探偵は自分が架空の人物であり、“視聴者”という存在によって行く末を見られていることを認識するはずがありません。

探偵は「事件の一部始終を作品として観ている視聴者」の存在に関わることで、事件や探偵の存在全てがフィクションであることを示しているのです。

さて、「そんなこと、当たり前でしょう」と思われるかもしれませんが、皆さんは、小説や映画を、創作か現実かを特に意識しないまま楽しんではいませんか? その一方で、作品の世界観に浸れば、作中での会話や出来事が目の前で本当に起こっているかのように感じることもあるはずです。

もし、本格的な推理小説を読んでいる時、急に「今までの推理について、読者の皆さんは理解できていますか?」と探偵に話しかけられたら、「せっかく面白く読めてたのに、どうしてさめるようなこと言うんだよ」と呆れる方もいるかもしれません。メタフィクションは、意図的に境界線に踏み入ったり、境界線そのものを壊してしまいます。

メタフィクションは、虚構と現実の境界線を曖昧にすることで、読者の持つ作品に対する認識を揺さぶる効果を持っています。その違和感に面白さを感じる読者もいますが、使いどころによっては物語の世界に入り込んでいた読者を興ざめさせてしまいます。メタフィクションの手法は、いわば諸刃の剣といっても過言ではありません。

 

現実と虚構を隔てる、「第四の壁」

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そもそも、フィクションである“虚構”と、私たち受け手が存在する“現実”は交わらないもの。これらを分けるものとして、演劇では古くから「観客と舞台の間には透明な壁がある」という、「第四の壁」が存在するといわれています。

しかし、ここであえて第四の壁を破るのがメタフィクションです。皆さんもよくご存知の童話、『ピーター・パン』でも、「妖精を信じてくれる小さな子どもたちがいれば、元気になれる」と話す妖精のティンカーベルのために、ピーターが読者に向かって拍手を求める場面が登場します。

「もし、君たちが信じてくれるなら」と、ピーターは子どもたちに向かって叫びました。「手をたたいてください。ティンクを死なせないでください」
おおぜいが手をたたきました。
しない子もいました。
しーっ、なんて言うひどい子も、少しいました。
拍手はとつぜん鳴りやみました。

ピーターはミュージカル作品においても、客席に向かって拍手を求めます。これはまさに虚構と現実を隔てる第四の壁を破り、作品と観客が交わる瞬間だといえるでしょう。

また、「第四の壁」を壊す手法を扱った設定で人気を博したのは、2016年に実写映画が公開されたアメリカンコミックのヒーロー、デッドプールです。

漫画のヒーローであるデッドプールには「第四の壁を壊す能力」が備わっています。作中においてストーリー展開に不満を持ったデッドプールは出版社に直訴する、作者の家に押し入って脅す……といった行動をとりますが、周りのキャラクターから「あいつは頭がおかしいから、わけのわからないことばかりしているぞ」と言われる始末。フィクションの世界が現実だと認識しているキャラクターたちにとって、現実世界に踏み込むデッドプールは異端の存在でしかないのです。

 

パターンから読み解く、メタフィクション事例

しかし、メタフィクションとは作中においてどのような形で行なわれているのでしょうか。アメリカ文学者であり、SF評論家である巽孝之は著作『メタフィクションの思想』の中で以下のように述べています。

たとえば、ひとつの小説フィクション内部にもうひとつの小説を物語るもうひとりの小説家が登場すること。たとえば、小説内部で文学史上の先行作品からの引用が織り成され、批判的再創造が行われること。たとえば、小説内の人物が実在の人物と時空を超えて対話したり、作者自身や読者自身と対決したりすること。たとえば、小説を書いている作者自身がもうひとりの登場人物として介入し、大冒険をくりひろげたり殺害の憂き目にあったりすること。そしてきわめつけは、たとえば小説内部で当の小説自体はおろかメタフィクションをも一環とする現代文学理論・批評理論そのものを根底から洒落のめしてしまうこと。

 
メタフィクションの接頭語である“メタ”とは、「上位の」を指す言葉です。『ピーター・パン』の事例からもわかるように、メタフィクションはフィクションの中に上位の立場にある現実を引き込むことで、虚構であることをより強調させる力を持っているのです。

作者をはっきりと登場させずとも、アメリカの古典文学、マーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒険』のように、登場人物に作者の存在を述べさせるパターンも存在します。

この作品では冒頭において、主人公のハックルベリー・フィンが自分のことをこのように紹介しています。

おらのことは、『トム・ソーヤーの冒険』ていう本を読んだ人でなければ、誰も知るめえが、そんなことはかまわねえ。マーク・トウェーンさんが書いたもんで、あらましは本当のことが書いてある。

ここからは「自分がマーク・トウェインによって書かれた物語の登場人物であること」を明確に理解していることがうかがえます。

このように、メタフィクションはさまざまな方法によって行われています。今回はその中から「登場人物たちが虚構の存在であることを自覚している」、「作者が登場人物として介入する」、「作品の中で別の作品を批評する」という3つのパターンを使った作品を解説します。

 

【パターンその1】登場人物が虚構の存在であることを自覚している

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メタフィクションをはじめ、さまざまな手法を用いた実験小説を発表し続けている作家、筒井康隆。1981年に発表された『虚人たち』には、登場人物たちすべてが「小説の中の登場人物であること」を知っているという設定があります。

物語の語り手である「木村」は、同時に誘拐された妻と娘を探そうと奔走しますが、息子は事件の解決に対して協力的ではありません。

「これはお父さんの事件なんだ。責任逃れで言ってるんじゃなくて実際その通りなんだものな。(中略)学校の事件にならぼくは責任を持っている。事件の最初からかかわりあっているんだしぼくがいなければ起こらない筈の事件だったんだからね。」

どうして息子は家族が誘拐されていながら、関わることを避けているのでしょうか。それは、学園ドラマの主人公として役割を演じている自分が、「誘拐された家族を助ける」という、青春とはかけ離れた展開に巻き込まれるのを嫌ったため。「学園ドラマの主人公」が問題に立ち向かおうとするのはあくまでも学園内だけであり、息子は家族が誘拐された……なんて事件が起こるのは「ヴァイオレンス・ノベル」だから自分には関係がない、と主張します。息子にとって、家族の一大事に関わる事件はキャラクター設定がぶれる障害でしかないのです。

確かに、異世界で魔物と戦っていた勇者が、突如として密室殺人の謎を解き明かそうとすることも、探偵が悪の帝王として世界を牛耳ることもまずありえません。一般的に勇者は「魔物を倒して世界に平和をもたらす」存在であり、探偵は「事件を解決する」存在です。学園を舞台にしたドラマの主人公が急に誘拐された母親と妹を助ける、などという展開は少し違和感を感じてしまうのではないでしょうか。

そして木村自身も「この物語における語り手」という役割をあたえられただけに過ぎず、冒頭では自分の姿や名前も知らない有様です。普通であれば、小説の登場人物はまるで台本に沿ってそれぞれの役を演じているかのように物事が進んでいきます。しかし、木村は「ここでは登場人物としてどのように振る舞うべきか」を常に考えながら行動を起こしています。このような演出は、『虚人たち』という作品が虚構であることを強く読者に印象付けています。

 

【パターンその2】作者が登場人物として介入する

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精神科医としての顔を持ち、ユニークな作風でファンも多い作家、北杜夫は著書『船乗りクプクプの冒険』においてキタ・モリオ氏として登場します。

宿題をなまけて本を読み始めた少年、タローはキタ・モリオが途中で執筆を投げ出した作品『船乗りクプクプ』の世界に迷い込んでしまいます。そこで自分が主人公の少年、クプクプになってしまったこと、迷い込んだのはキタ・モリオによって描かれた世界であることを知るのでした。

クプクプは道中、思いがけない人に出会います。なんとそれは、物語を書いた作者であるキタ・モリオ氏でした。

「それより、どうしたって、あのつづきを書いてほしいんですよ」
「ほほう」
と、キタ・モリオ氏はまたニコニコしだした。
「あれはそんなにおもしろかったかい?」
ちっともおもしろくありませんよ、とクプクプはさけぼうとした。しかし、ここがしんぼうのしどころだと思って、こういった。
「あのクプクプっていう主人公を、東京の自宅の勉強べやにかえしてほしいんです。ぜひそう書いてください」
「なんだって? 東京の勉強べや? 東京なんぞクプクプと関係ないぞ。それじゃスジがメチャクチャになってしまう」
と、キタ・モリオ氏はしぶい顔をした。

クプクプはキタ・モリオ氏が『船乗りクプクプ』の続きを書けば、タローとして自分のいた世界に戻ることができるだろうと考えて執筆の続きを依頼します。しかし、事情を知らないキタ・モリオ氏はあらすじが迷走してしまうことからそれを拒否するのでした。

冒頭でも述べた通り、普段、私たちは創作が創作であるとわかったうえで作品に触れています。しかし、私たちと同じ現実に存在するはずの作者が作品に登場すれば、「現実にいるはずの作者が物語上に出てきたなんて、一体これはどういうことなんだろう」と疑問を抱くことでしょう。そして同時に「この作者が物語を書いたのなら、作者が執筆したことが物語の中でその通りに起こるのではないか?」という疑問が生じるのではないでしょうか。

『船乗りクプクプ』という物語は、キタ・モリオ氏によって生み出された以上、作者はいわば神のような存在です。つまり、作者が物語を創作することで登場人物の未来を決められるため、作者の自由で物語は左右されます。

この作品においてキタ・モリオ氏は「編集者がスイカを食べ過ぎてお腹が破裂した、と書いてその通りになるのなら、うまい話はない」とふざけたり、「腹が減ったからフカフカのパンとこってりしたチーズを書いてくれ」と頼まれたときには「これは魔法の一種だから、よほどうまい時期にであわないとダメなのだ」と言い訳しています。

キタ・モリオ氏はこの物語の作者であるため、自分の天敵である編集者をやっつけ、美味しい食事を自在に出すことだって可能のように思えます。しかし、たった2ページしか物語を書いていない以上、作者でありながら無力です。これはメタフィクションをうまく使い、作者自身をネタに物語を展開させるテクニックです。

 

【パターンその3:作品の中で別の作品を批評する】

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筒井康隆の『朝のガスパール』もまた、メタフィクションの手法が使われた作品です。

『朝のガスパール』は1991年10月から翌年3月まで、朝日新聞で新聞小説として連載されました。今作ではコンピューターゲーム「まぼろしの遊撃隊」内での世界、それを知的な遊びであり、コミュニケーションツールとして遊ぶ会社員たちとその妻たちの世界、そしてその様子を書いている作家、櫟沢くぬぎざわの世界と3種類の世界が存在しています。

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『朝のガスパール』では「まぼろしの遊撃隊」というゲームが登場しているように、作品の中に別の作品を登場させる劇中劇(または作中作)は、フィクションの中にまたフィクションを入れることによって、より虚構であることを浮かび上がらせる効果を持っています。

驚くべき点はこれだけではありません。筒井氏は読者からの投書やBBSからの投稿を作中に登場させる試みを行ないました。つまり、現実と作品の間にあった第四の壁を投稿と投書が打ち破ったのです。作品に対する罵倒でさえも実名を出して作中で紹介するといった演出は、読者に大きな衝撃を与えました。

連載が進むにつれ、投稿は非難するものが増えていきます。「まぼろしの遊撃隊が活躍するような、SFシーンを書いてくれ」という意見と「SFなんてくだらない。会社のパーティー部分を書いてくれ」という意見が対立し、どちらかを書けば一方を支持する側によって荒れていく様子に作者である櫟沢は板挟みになっていきます。

その荒れた投稿は次第に作品そのものにも影響を及ぼします。もともと知的な遊びだったはずの「まぼろしの遊撃隊」は暴力的な展開を見せたかと思えば、最終的にゲーム世界を飛び出してゲームを遊んでいた登場人物のもとにやってきます。読者からの投稿と作品の間にあった壁だけでなく、その投稿から新たな展開を迎えたゲームと作中の現実の間にあった壁をも破ってしまったのです。

劇中劇を登場させるとともに、読者が作品に参加する形式をとる。それに加え劇中の作品が作品において第四の壁を破るという点で、『朝のガスパール』はメタフィクションの要素がこれでもかと詰まった作品といえるでしょう。

 

おわりに

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メタフィクションは、フィクションであることをわざと述べる演出法のこと。フィクションがフィクションであることは、何があっても変わりません。登場人物たちは何の疑問もなく、ファンタジーの世界では悪と立ち向かい、ミステリーの世界では犯人を追います。そこであえて「どうして自分はこんなことをやってるんだろう。ねえ、読者の皆さん、どう思います?」とこちらに呼びかけるのがメタフィクション。現実と虚構の境目をあやふやにすることで、読者と作品の距離をぐっと近づけます。

第四の壁を破り、私たちの生きる世界に物語が流れ込むとき、作品は新たな魅力を持ちます。その瞬間にあらためて注目して作品に触れてみてはいかがでしょうか。

 
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