【特集】宮澤賢治

盛岡高等農林時代

貧しい人からお金をとれない。そんな自分は商売に向かない――。その時出会った『漢和対照妙法蓮華経』。 農民のために生きよう……賢治は清く尊く、合掌、読経。

大正三年三月、賢治は盛岡中学を卒業しました。友だちは一高をはじめ、希望に燃えて進学をめざします。ところが、賢治の未来は商人に決まっています。代々宮澤家の長男が家業を継ぐことに決まっていましたから、賢治としては決められた道を行くしかありませんでした。
しかし、賢治の他人の心を思う性格は商人には絶対といっていいほど向きません。貧しい人から金をとれるか。賢治は悩みます。心が晴れない毎日が続き発疹チフスの疑いで入院生活を送る羽目に陥ります。

友だちの
入学試験も近からん
われはやみたれば
小さき百合掘る

退院してからも、店番をしたり、家でやっていた養蚕のために桑つみをしながら、そんな悲しい歌を詠んだりしていました。
あまりの元気のなさに、父政次郎は盛岡高等農林学校の受験を許可します。商売に向かない子供に無理やり家業を継がせるのは酷だという親心がそうさせたにちがいありません。「商売はいいから学べ」
父政次郎が学問好きな人だったことも、その時の賢治にとっては幸いしていたかもしれません。
その少し前、賢治は自分のそれからの一生を左右する「法華経」に出会います。
経典を読み、感動を覚えます。彼の言葉を借りれば、からだの震えが止まらなかったほどだったようです。その本の名は『漢和対照妙法蓮華経』。彼の仏教への思い入れは盛岡高等農林学校に入学してから、ますます高まっていくのでした。
「農民のために生きよう」。賢治にようやく自分の将来の役割が見つかったのです。
i-0034.3_01
盛岡高等農林3年当時の賢治。襟のMは級長章。

i-0034

上京・国柱会

もはや出るよりしかたがない。大正十年一月、筒袖のままで賢治は家を出た。御本尊を箱におさめ、洋傘一本と旅費だけ持って、汽車は故郷を離れ、上野へ、上野へ。賢治二十五歳の父からの旅立ちであった――。

大正七(1918)年、賢治は盛岡高等農林学校を一番の成績で卒業すると、そのまま研究助手として、この学校に残り、故郷全体の土地の調査をはじめました。
やせた土地を肥やし、そこに種を蒔き、黄金の波のような米の収穫と、農民たちの夕陽に輝く笑顔を想像すると、賢治はいても立ってもいられませんでした。
しかし、その夢はすぐには叶いません。そこで、賢治は自分の思い描く世界を童話に託しはじめました。童話なら理想の世界をすぐにでもできる、賢治はそう思い立ったのです。「蜘蛛となめくぢと狸」というのが、賢治の最初の作品です。
やがて、童話だけでは現実の世界は変えられないことに気がつきます。毎日見かける貧しい人たちの暮らしも救えそうにもない、そう考えた賢治は前から信心していた法華経の熱心な信者となり、雪降る町の寒行を繰り返すのでした。
さらに、賢治は家族を日蓮宗に改宗させようとします。しかし、父政次郎はそんな賢治に宗教の道はひとつ。日蓮宗だけが正しいのではないと説得しますが、まったく賢治は聞きいれません。賢治は自分の無力を知り、再び上京します。ふだん着のもめんのかすりにコウモリ傘、そして風呂敷包みの中に日蓮宗の御書と曼陀羅の掛軸を持って、日蓮宗の熱心な信者が集まる国柱会へと向かうのでした。
(二度と親父の世話にならない。立派な宗教家になるんだ)とつぶやきながら……。

i-0035.5_01
賢治が下宿した稲垣家の2階の部屋。この部屋の様子は、友人宛の手紙に「三畳の汚い処ですが、何十日でも宜しうございます」とあり、またのちに訪ねた父政次郎の言葉によれば、「うなぎの寝床のような部屋」だという。

i-0035

池上彰・総理の秘密<9>
瀬木比呂志著『黒い巨塔 最高裁判所』が暴くリアルな最高裁の内幕。岩瀬達哉が解説!