連載[担当編集者だけが知っている名作・作家秘話] 第4話 野坂昭如さんの遅筆

名作誕生の裏には秘話あり。担当編集と作家の間では、作品誕生まで実に様々なドラマがあります。一般読者には知られていない作品の裏側をお伝えする連載の第4回目です。「野坂昭如」といえば、その破天荒ぶりが有名で、語り継がれるエピソードも豊富な作家の1人。直木賞作家でもあり、幅広く活躍したことでも知られています。当時を振り返ってみましょう。

担当編集者だけが知っている、想像を越えた「野坂昭如らしさ」とは……?

 『火垂るの墓』などで知られる、直木賞受賞作家・野坂昭如。赤裸々で率直な文体が特徴で、小説のほか自伝的な作品も数多く遺しました。担当編集者だけが知るとっておきのエピソードについて、宮田昭宏氏が語ります。


 私は、1969年に野坂昭如さんの担当者になった。
 講談社に入社して、「小説現代」編集部に配属になった翌年のことである。
 野坂さんの原稿が遅いことは有名だったが、私はその恐るべき遅筆振りを、編集部に配属になって間もないころに目の当たりにしていた。私にはまだ、担当作家が一人もなく、グラビア・ページと、短歌、俳句、川柳の投稿欄を先輩編集者から教わりながら、校了すれば、あとはなにもすることのない身だった。
 その日はすでに最終校了日だったか、それも過ぎていたのか、それぞれの校了を済ませて、外出していたのか、休みをとっていたのか、編集長と、印刷所との連絡をする進行係の副編集長を除いて編集部には誰もいなかった。
 その編集部に、静謐と言うにはアヤシゲで重苦しい空気が流れていた。編集長も副編集長も、一言も口をきこうとしない。ぼくも所在なく、バック・ナンバーのページを繰ってはいたが、その空気の重たさに、どうも身に入らない。
 新人なので、事態がよく飲み込めていなかったのだが、その月の校了は、野坂さんの小説のページを除いてすべて終わっていたのだった。
「入りました!入りました!」
 その当時の担当だった大村彦次郎さんが大きな声でそう言いながら、編集部に飛び込んできた。
 編集長も副編集長も、突然スイッチが入った、ばね仕掛けの人形のように腰を浮かせた。
「題名が決まりました」
 大村さんがヒラヒラさせているのは、たった一枚の400字詰めの原稿用紙で、どうやら、そこには、遅れに遅れている小説の題名が書かれているだけらしい。
 それを見た編集長も副編集長も、同時にストンと椅子に腰を落とした。
 大村さんは、遅れている言い訳をする代わりに、いかにも誇らしげに、それを開いて、ふたりに見せた。
 原稿ができたのだと腰を浮かして、できたのが題名だけと知って腰を落としたふたりは、いかに野坂さんは題名ができさえすれば、落とすことはないし、あとは一瀉千里、1時間に5枚のペースで書き上げると知ってはいるものの、目の前に見せられた題名はなんと読むのか分からないのだ。
「骨餓身峠死人葛」
 確かに、初めて見たら、なんと読むのか判じ物みたいな題だ。それが一行だけ、神楽坂の相馬屋という文房具屋が作っているうぐいす色の罫の原稿用紙に書かれていたのだ。
 それから先のことは、実を言うと、記憶にないのだが、どういうからくりが働いたのか、名作「骨餓身峠死人葛」は無事校了まで漕ぎ着けたわけだが、その遅筆振りは、新人編集者の心胆を寒からしめるのに充分だった。
 私が、はじめて野坂さんから頂戴したのは、「ああ、鈍角四包茎」という題の、短篇のユーモア小説だった。校了日が近づいてきても、一枚の原稿もできていないのだ。夕方、ようやくの思いで捕まえた野坂さんは、神楽坂の毘沙門天通りにあったラブ・ホテルに入って行った。
「ここで書きます」
 野坂さんは、勝手知ったるように、畳の上に座り込み、紙袋からB2の鉛筆やら消しゴムやら、相馬屋の原稿用紙やらを取り出して座卓の上に並べ、最後には手回しの鉛筆削りまで取り出したのである。

 初めて、流行作家の原稿の居催促を経験する私は、それこそ雲の上を歩いているような塩梅だった。意気込んで、座卓の反対側に正座して、さあ、書いてくださいとばかり、目を光らせたのである。
「あ、あなたは次の間で、寝ていてください。朝までに書いてしまいますから」
 そう言われて、私は次の間の襖を開けた。
 ひとつ蒲団に枕がふたつ。枕元には、スタンドとお盆に湯呑み茶碗がふたつ伏せて置いてあった。
「そこ閉めて、寝ててください」
 そう言われては仕方ない。野坂さんのいる部屋との間の襖を閉めた。
 私はスタンドを点けて、蒲団の上に横になった。横にはなったが、もちろん、眠れるわけがない。
 野坂さんが起きている気配を感じなくなったとき、私は空咳をしたり、布団の上でわざと音を立て、寝返りを打ったりした。
 その度に、野坂さんが、一枚づつ原稿用紙を剥がす音が聞こえた。
 少しづつではあるが、進んでいるようだ。
 原稿用紙を剥がす音は、朝、6時近くには13回を数えた。
 よし、これを持って、市ヶ谷にある大日本印刷に入稿してすぐ取って返してきて、残りをいただけば間に合うだろうと目算して、蒲団の上で体を起こした。
 そのとき、隣室の野坂さんも動いたような気配があった。
「失礼します」
 私は襖越しに声をかけて、襖を開けた。
 野坂さんは空ろな目をして、こちらを見ていた。畳の上に書いて剥がした原稿用紙が13枚、重ねた形で置いてあった。それに手を伸ばしながら、私は言った。
「では、できた分だけいただいて行きます。大日本に入稿して、すぐ戻ってきますから、あとをよろしくお願いします」
 野坂さんは、うろたえたような目をこちらに向けて、なにも言わなかった。その目を見ていて、私はそこに重なっている13枚の原稿には一字も書かれていないことを悟った。
「こ、これは」
 それ以上、言葉にならなかった。
 私が空咳をしたり、寝返りをしたりして督促したつもりだったが、そのたびに目を覚ました野坂さんは原稿用紙を一枚づつ剥がして、畳の上に置いていただけなのだった。
 過ぎ去った時間の長さを原稿枚数に換算しながら、腹が立つより、奇妙な笑いが腹の底から浮かんできた。
 6時間近くたっぷり睡眠を取った野坂さんは物凄い勢いで、原稿を書き上げてくれて、渡してくれたのは、お宅でだった。なんのためのラブ・ホテルのひと夜だったのだろう。
 その「ホテル神楽坂」も、いまは無くなってしまった。再開発されて綺麗になった通りのどこにあったのか、いまの私には見当もつかない。 

【執筆者プロフィール】

宮田 昭宏
Akihiro Miyata

国際基督教大学卒業後、1968年、講談社入社。小説誌「小説現代」編集部に配属。池波正太郎、山口瞳、野坂昭如、長部日出雄、田中小実昌などを担当。1974年に純文学誌「群像」編集部に異動。林京子『ギアマン・ビードロ』、吉行淳之介『夕暮れまで』、開高健『黄昏の力』、三浦哲郎『おろおろ草子』などに関わる。1979年「群像」新人賞に応募した村上春樹に出会う。1983年、文庫PR誌「イン☆ポケット」を創刊。安部譲二の処女小説「塀の中のプレイボール」を掲載。1985年、編集長として「小説現代」に戻り、常盤新平『遠いアメリカ』、阿部牧郎『それぞれの終楽章』の直木賞受賞に関わる。2016年から配信開始した『山口瞳 電子全集』では監修者を務める。

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初出:P+D MAGAZINE(2022/12/06)

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