芸術家・トーベ・ヤンソンの知られざる生涯と、その作品の魅力
ずんぐりとした体に細長いしっぽを持つ愛らしいキャラクター、“ムーミン”。トーベ・ヤンソンと聞くと、そんな“ムーミンの生みの親”のイメージが強いのではないでしょうか。しかし、実際にはトーベ・ヤンソンは、小説家、イラストレーター、風刺画家、デザイナーと実にさまざまな分野で活躍した女性でした。トーベ・ヤンソンの知られざる生涯と、その作品の魅力を紹介します。
トーベ・ヤンソンという名前を聞いて、ほとんどの人が真っ先に“ムーミン”のことを思い出すのではないでしょうか。トーベ・ヤンソンの仕事としてもっともよく知られているのは、たしかにムーミン・シリーズと呼ばれる計9作品の小説と、それに付随して描かれた漫画作品です。
しかし、彼女はそれだけでなく、イラストレーター、小説家、風刺画家、デザイナー……と、実に多岐にわたる分野で活躍した人でもありました。2021年10月からはトーベ・ヤンソンの人生と仕事を描いた映画『TOVE/トーベ』が全国公開されていることもあり、映画をきっかけにあらためてその人物像に関心を持った、という方もいるかもしれません。
今回はそんなトーベ・ヤンソンの生涯を紐解きながら、ムーミン・シリーズとそれ以外の作品にもスポットを当てつつ、彼女の創作に表れている魅力と思想を紹介します。
芸術家の才能が花開いた少女時代
トーベ・ヤンソンは、1914年の夏にフィンランドで生まれました。画家をしていた母親・シグネと彫刻家をしていた父親・ヴィクトルの影響でアートに囲まれた環境で育ったトーベは、なんとわずか1歳半のときからペンを持ち、絵を描く作業に熱中していたと言います。
そんなトーベが作家としてデビューしたのは、わずか14歳のとき。週刊誌のなかの詩と絵のコーナーを手がけたのがキャリアの始まりでした。その翌年、ストックホルムに暮らしていたトーベの祖母が危篤になり、急遽、母親のシグネが祖母のもとへ向かわなければいけなくなったことがきっかけで、シグネの仕事の代役をトーベが務めることになります。トーベは『プリッキナとファビアンの冒険』と名づけられた全7回のコミックス連載を見事にやりきりました。その背景には、ひとりで仕事を抱えることが多かったシグネの手助けをすることで自分が家計を支えたい、という思いもあったようです。
学生時代のトーベは商業誌での挿絵の仕事の実績を積み重ねていくとともに、画家になりたいという強い思いを抱き、自作の絵本も制作するようになっていました。15歳のときには学校を自主退学し、ストックホルムの工芸専門学校に入って広告やデザインの勉強をするようになります。卒業後、周囲には現地の美術大学への進学を勧められたものの、学費が家計を圧迫していくことに悩み続けたトーベは、故郷のフィンランドに戻って美術学校(通称アテネウム)に通いながら家族と暮らす道を選びます。
トーベはアテネウムで多くの芸術家の卵たちと知り合いましたが、同時に、女性差別も経験しました。当時、アテネウムの絵画クラスには女性が少なく、トーベは圧倒的なマイノリティでした。クラスでいちばん良い成績を修めていたにも関わらず、なぜか男子生徒よりも自分の絵がいつも低い位置に飾られることに、トーベはショックを受けていました。自立志向の強かったトーベはやがてアテネウムにも背を向け、奨学金を得て、フランスやイタリアといった諸外国を旅しながら生活するようになっていきます。
第二次世界大戦中の創作活動──ムーミンの誕生
トーベがイタリアから帰国した直後の1939年に、第二次世界大戦が勃発します。トーベは当時、シグネの職場での仕事や広告の仕事などのほかに、政治風刺雑誌『ガルム』のイラストの仕事が高く評価され、風刺画家として一流とまで言われるほどになっていました。『ガルム』はナチス・ドイツの独裁政権に否定的な立場をとる雑誌だったため、トーベは何度も検閲によって表現を制限されながらも、この雑誌で仕事をすることに面白さを感じていたようです。
ガルム誌の仕事で何が良かったかと言えば、ヒトラーやスターリンに対して悪態をついていられたってこと
とトーベは当時を振り返った日記に記しています。彼女は当時から、たしかな腕でさまざまなジャンルの仕事をこなしながらも、自由を制限するものに対しては人一倍強い怒りを覚える作家でした。
1943年、細長い鼻と耳、長い尻尾を持った“ムーミントロール”の原型となるキャラクターが「スノーク」という名前で初めて公の場に姿を現したのも、この『ガルム』誌のなかでのことです。
スノークはどこでもないどこかのようなところで生まれ、夢や幻覚やある種のファンタジーに関するさまざまな文章に添えられる絵として姿を現した。(中略)いつも怒った顔をしていて、風刺画にふさわしい皮肉たっぷりの存在だった。やがて1944年秋、その生きものがガルム誌やその他の媒体でのトーベの絵に毎回登場するようになる。生きものは作家のサインでありながら、絵の一部としての役割も果たす。絵の中で起きていることを身体やジェスチャーで真似たり、これから起こりそうなことを暗示したり、風刺のポイントを示す場合もあった。「できる限りの辛辣な方法で、スノークが絵の内容のパロディをしている」とトーベはのちに語っており、「寄り目なのも怒っているから」という証言も残している。
──ボエル・ヴェスティン『トーベ・ヤンソン 人生、芸術、言葉』より
同じ年の秋、トーベは高名なギャラリーのオーナー、レオナルド・バックスバッカに声をかけられ、画家としての初めての個展を開きます。戦時中にも関わらず、トーベの絵は80点以上売れました。翌年には海にほど近いウッランリンナ地区に自身のアトリエを持ち、このアトリエで精力的な創作活動をおこなうようになりました。
“ムーミン”人気が一気に世界へと広がる
戦時中の不自由な環境のなかでも、トーベはひっそりとスノークたちを主人公にした物語を書いていました。トーベはスノークたちを“ムーミントロール”と呼ぶようになり、やがてそのストーリーを本として出版したいと考えるようになります。
終戦後の1945年、その物語は出版社によって『小さなトロールと大きな洪水』と名づけられ、フィンランドとその隣国・スウェーデンで発表されます。しかし、注目を集めることはほとんどありませんでした。
出典:https://www.amazon.co.jp/dp/B00BSIRRCC/
『小さなトロールと大きな洪水』は、幼い子どもであるムーミントロールとその母親が大きな森のなかを彷徨いながら、失踪してしまった父親を探し、大洪水ののちに自分たちの家を見つけるという物語です。舞台となった大きな森や洪水といった混沌としたモチーフからは、戦争の影がはっきりと感じられました。スウェーデンでは当時、戦争の色を感じさせない冒険譚である『長くつ下のピッピ』が人気を集めていたこともあり、系統の大きく異なるトーベの物語は、読者たちにすぐには受け入れられなかったようです。
しかし、自身の内面世界が強く反映されたムーミントロールたちの物語を紡ぐことは、トーベにとってある種の癒やしにもなっていました。トーベは画家として着実に作品制作を続けつつ、ムーミントロールたちの物語を書くこともやめませんでした。1946年には2作目の『ムーミン谷の彗星』を発表するとともに、3作目にあたる『たのしいムーミン一家』の執筆を始めます。
出典:https://www.amazon.co.jp/dp/B00BSIRP3I/
ムーミントロールたちが暮らす世界の夏を描いた『たのしいムーミン一家』は生命力と愛に溢れた作品で、この物語はフィンランドとスウェーデンの読者に好評でした。やがて、作品は児童文学大国であるイギリスでも出版され、1954年にはロンドンの夕刊紙でムーミントロールたちを主人公にしたコミックス連載が始まります。この漫画化をきっかけに、ムーミン人気は一気に白熱。すぐにフィンランド、デンマーク、スウェーデンの新聞にも漫画が転載されるようになり、オリジナルの小説版にも注目が集まるようになります。ここから、トーベはムーミン・シリーズの執筆と並行してコミックス連載も手がけるという、驚異的な仕事量をこなすようになっていきます。
“ムーミンビジネス”への疲弊と再出発
1950年代には、ムーミン・シリーズの漫画と小説版は40ヶ国以上で翻訳され、世界的な人気を得るようになっていました。トーベは40代で児童文学作家としての不動の地位を手にしましたが、同時に、ムーミンたちが物語を離れ、単なる可愛らしいキャラクターグッズとして愛でられるようになっていくことには疑問を覚えてもいたのです。トーベは1950年代、親友のエヴァという女性に、こんな手紙を送っています。
仕事があることは喜ばしいこと。でも、比例してプライベートの時間がどんどん少なくなってしまっていて。物語の制作には莫大な時間が必要だし、ビジネスレターも打ち合わせも、もううんざり。(中略)そこにプラスティックの加工会社から、ニョロニョロの形の輪ゴムがどうのこうのと来てるっていう
トーベは、画家であることこそが自分自身のアイデンティティだと固く信じていました。キャラクタービジネスの対応に追われ、作家性が満足に発揮できないことに悩んでいたトーベは、1955年にグラフィックアーティストのトゥーリッキ・ピエティラという女性に出会い、強く惹かれます。トーベはトゥーリッキと交際を始め、熱狂的なファンや記者の訪問を避けることができる小さな離れ小島、クルーヴハル島で暮らすようになりました。
“ムーミンの作者”という輝かしいイメージを投げ捨て、画家として再出発をはかりたいと感じていたトーベは、1960年代から名字の“ヤンソン”を筆名とします。そして同時に、大人向けの小説も積極的に執筆するようになりました。
1971年には最初の短編小説集『聴く女』を発表します。以降、トーベは小説執筆を通して、ムーミン・シリーズでは暗示的にしか描いてこなかった精神の暗部や孤独、老いといったテーマを前面に打ち出すとともに、同性愛の関係もごく自然に描きました。1972年に発表された自伝的小説『少女ソフィアの夏』では、幼い女の子ソフィアと人生の出口にたたずむおばあさんとの交流を通して、自身の幼少時代と、静かな島で過ごす老後を書いています。
トーベとトゥーリッキはその後、体力の衰えもあって1990年代にクルーヴハル島を明け渡し、ヘルシンキに戻ります。トーベは2001年に86歳で生涯を終えますが、小説の執筆やイラストレーションの仕事は晩年まで続け、決して筆を置くことはありませんでした。
おわりに──トーベの作品に通底する思想
トーベの作品には、自分とは違う他者を受け入れることや、旅を通じて違う世界に出会うこと──言い換えるなら、自由であることや自立していることの重要性が共通して描かれています。トーベは、前時代的な価値観や窮屈な規律にとらわれずに自由でいることこそが、不安や恐怖から自分を解放してくれる唯一の道であると信じていました。
そういった思想はムーミントロールたちの世界を描いた小説や漫画シリーズにも色濃く表れていますが、晩年に執筆していた大人向けの小説のなかではより顕著です。
ムーミン・シリーズのファンである方はもちろん、映画『TOVE/トーベ』を見てトーベ・ヤンソンのことをより知りたくなったという方も、ぜひこの機会に彼女の小説作品や伝記に手を伸ばしてみてはいかがでしょうか。
※参考文献
・ボエル・ヴェスティン『トーベ・ヤンソン 人生、芸術、言葉』
・トーベ・ヤンソン『トーベ・ヤンソン短編集』
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初出:P+D MAGAZINE(2021/11/16)