「悪魔のおにぎり」の考案者! 渡貫淳子「夢は見つけるものではなく、出会うもの」南極生活秘話を語った

時に、昭和基地はマイナス45.3度(ドームふじ基地はマイナス60度くらい、ロシアのボストーク基地はマイナス89.2度)にもなる極限の世界、南極。母親で史上初の南極観測隊調理隊員として昭和基地に派遣された渡貫淳子氏に、南極で体験したさまざまな出来事や、巷で話題の「悪魔のおにぎり」考案のエピソードなどについてインタビューしました。

南極観測隊調理隊員になって

――南極へは、どのくらいの期間行かれていたのですか?

渡貫さん(以下、渡貫):1年4か月行っていたのですが、そのうちの2か月は船上生活。オーストラリアから船に乗り込んで、昭和基地までは3週間。帰りは昭和基地からシドニーまで50日かかります。

――昭和基地では、オーロラをたくさん見ることができるそうですね。

渡貫:そうなんです。昭和基地は、オーロラ帯と言われる部分の真下にあるので、オーロラをよく見ることができます。研究するのにもとても恵まれているんですよ。

――南極での生活はいかがでしたか?

渡貫:人間関係などは、日本とさして変わりません。新しいことがたくさんで、楽しい日々でした。本当に、行ってよかったと思っています。

――どうして南極へ行きたかったのですか? 一番よく聞かれると(本の中でも)おっしゃっていましたが?

渡貫:いまだに言語化できない、というのが正確かもしれないですね。パワーはどこから湧いてきたのかと考えてみると、「3度目のチャレンジ」だったことも大きかったのかもしれません。2回試験に落ちたことによって、「南極へ行きたい」という思いがより強くなったのだと思います。私の場合、モチベーションを保つために、「どうしても南極へ行きたい」ということを、周囲に言うようにしていましたね。応援してくれる人がたくさんいて、やる気につながりました。OBの方からもたくさん励ましていただいて、自分自身の目で見たいもの、体感したいことへの思いが強まっていきました。

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――すごい熱意ですね。なぜ、そんなに南極へ行きたいと思われたのでしょう?

渡貫:私は理論的に物事を考えるタイプではないので(笑)登山をする人が、なぜ登山をするのかと聞かれて「そこに山があるから」と答えるのと同じように、理屈じゃなく、行きたかった。南極で仕事ができる、ということが、何よりも一番の魅力だったんです。自分が持っている資格を生かすこともできるわけで、南極で仕事ができる、ということが、言葉では言い表せないほどの思いでした。

――強い思いを叶えられたのですね。逆に、南極での生活で大変なことはありませんでしたか?

渡貫:訓練をしっかり積んでから行ったので、行ってから辛いことは、ほとんどなかったですね。座学でもしっかり学ぶので、行ってみてから「え?」と思うようなこともなかったです。ただ、不慣れな土木作業をしたりもするので、体力的に厳しい時ももちろんありました。建物を建てたり、壊したり、研究者の手伝いをしたり。みんなで協力しあい、楽しく過ごしました。

南極で苦労したこと、そして生まれた「悪魔のおにぎり」

――調理隊員として行かれていたわけですが、苦労した点はどんなところだったのでしょうか?

渡貫:環境としては制約が多い中で、一緒に調理をするメンバー(通称・相方さん)が経験者だったので、助かる部分がとても多かったです。食事については、出発前に皆にアンケートをとっているので、想定外の事態はそこまで起きないかな……、と思いきや、これが起きるんです。

――たとえばどんなことが?

渡貫:アンケートに記入するほどのことでもないと思われたのでしょう、たとえば、牛丼に乗せる紅ショウガ。それが人より多いのが好みの人がいたとします。思っていた以上に消費されるので、このままじゃ1年持たない、とか。そういうものの量って自分の中ではスタンダードなので、本人も気がついていなかったりするんですよね。

――なるほど。料理のエピソードでいうとやはり、「悪魔のおにぎり」が話題ですね。

渡貫:「悪魔のおにぎり」と命名した人がすごいですよね(笑)。あれは、夜食で出したさまざまな味のおにぎりのうちのひとつで、天かすなどが材料なので、「たぬきのおにぎり」と呼んでいたものなんです。30代くらいの男性隊員などは、夜におなかが空くんですよね。
あり合わせの具材で作ったのがきっかけでしたが、ここまで好評になるとは思いもしませんでした。

――美味しくて止まらなくなるから「悪魔のおにぎり」なんですよね。

渡貫:そうですね(笑)そして、昭和基地の問題は、運動スペースがないので、運動不足になることなんです。肉体労働は、毎日のように除雪をしたりするのですが、それ以上に食べ、しかし運動する場所がない、太る、という人も。私もプラス3キロでした。2桁太ったりした人もいましたね。帰る頃になるとダイエットする人が出てきたりして、お米を炊いても余ることがありました。残ったものもうまくアレンジして、調理していましたね。

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――南極観測隊の伝統として、「流しそうめん」をする、とのことですが。

渡貫:そうなんです。ちょうど良いサイズの氷山を探しに行き、建築担当の隊員が溝を掘り、二つのグループに分かれて、ポリタンクにお湯、茹でたそうめん、天ぷら、天つゆなど一式を持って、みんなで雪上車に乗って出かけ、流しそうめんをします。
南極での生活は、自分たちで楽しくしないと何もないので、全力で楽しいことをしようとするんですね。ある隊員の言葉で「くだらないことを全力で」というものがありますが、本当にそのとおりで。考え次第でいくらでも楽しく過ごすことができました。

――素晴らしいですね。仲間内での衝突などはなかったのですか?

渡貫:衝突とまではいかないまでも、些細な行き違いなどはあります。でも、喧嘩のほとんどは、相手を知らないから起きるんだと思うんですね。人の良いところを見るようにしないといけない。歩み寄ること、声に出してはっきり言うこと。そうじゃないと、誰も察してはくれません。家族だって、言葉にしないと誤解を生むことがある。意外と伝わっていないことって多いんですよね。コミュニケーションについてもたくさん学ぶことができました。

「南極廃人」

――帰国されてからは、いかがでしたか?

渡貫:本当に、辛かった、のひと言に尽きます。まさに「南極廃人」。これは観測隊の中で言われている言葉なのですが、「ロス」状態になることを指すんです。私もある程度覚悟はしていたのですが、まあそんなに深刻なものではないだろう、と思っていました。ところがこれが本当に辛かった。街中からなんだかわからない音が聞こえ、物で溢れている光景に、色々な思いがこみ上げてきて。スーパーのお総菜売り場で泣いてしまうこともあったほどです。

――それはやはり、昭和基地に帰りたいという思いもあってなのでしょうか。

渡貫:食堂から見える南極大陸を、もう一度見たい、という思いはあります。昭和基地の一番の魅力は、ペンギンでもなければ、氷山でもなければ、「人間」。誰が欠けても、生活がままならない。迷惑をかけないことはまず無理、お互い様というわけではないけれど、自分には自分にできることを全うする、ということで成り立っています。
平穏無事に、小競り合いなどもなく、品行方正に生活していたら、本を書くこともできなかったですし、人間、捨てたもんじゃないな、と思いました。

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――本当に、貴重な経験をされたのですね。

渡貫:そうですね。今の自分の生活だと、嫌な人や物事は避けられますが、南極ではそれはできない。がっつり向き合わないといけないんです。それも、とても勉強になりましたね。

――最後に、南極観測隊としての経験を振り返って、ひと言お願いします。

渡貫:夢は、見つけるものではなく、出会うものだ、と私は考えています。
無理に見つけなくても、出会えたときに、全力でチャレンジできるスキルを少しずつ身につけておきたい。
私の場合には、調理が好きで、夢を探しているとか迷いがあったわけではなかったけれど、まさに夢に出会ってしまった。本当に、これ以上興味の湧くことはないですね。
人と違うことをするのには勇気がいるけれど、やり遂げたら、ゆるぎない自信が生まれると思います。

<了>

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プロフィール

渡貫淳子(わたぬき・じゅんこ)

1973年青森県八戸市生まれ。調理師。伊藤ハム株式会社商品開発部所属。「エコール辻 東京」卒業後、同校の日本料理技術職員に。出産後、いったん職場を離れ、一児の母として家事・育児に奮闘する日々を送ってきたが、一念発起して南極観測隊の調理隊の調理隊員にチャレンジ。3度目の挑戦で見事合格を果たし、母親としては初の調理隊員として、第57次南極地域観測隊に参加。帰還後は、各誌でのレシピ紹介や講演会など、活動の場を広げる。2018年6月放映の「世界一受けたい授業」(日本テレビ)で紹介された「悪魔のおにぎり」が大反響を呼び、南極での料理が話題となった。

南極ではたらく かあちゃん、調理隊員になる

渡貫淳子(著) 平凡社
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初出:P+D MAGAZINE(2019/03/05)

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