『現代ユウモア全集』は円本ブームの最終ランナー
平山周吉
2024年11月29日から電子全集として復刊される現代ユウモア全集(全24巻)。第1巻の巻末では、雑文家・平山周吉氏が、この全集が誕生した歴史的背景とその意義について解説している。配信開始を記念して、小説丸ではこの文章を特別掲載する。
「ユウモア気分を日本中にみなぎらせて、日本人の生活を和気あい〳〵たるものに仕ようと云う、誠に感心な心懸けの人物が打揃って、頃は六月二十日の夜、急行寝台車で東京駅を出発した。/一行五人、曰く、堺利彦老、曰く、佐々木邦君、それから恁く申す生方敏郎君と、小学館より宮西一積、鈴木省三の二君。中にも私は其数日前から痔を病んで坐ることも腰かけることも成らず、天下広しと雖も此尻を置くに処無し、と云う始末であったが、ユウモア宣伝と云う神聖なる使命を果すためには、病苦も蜂の頭もあるものか、進めや進め大にやれ! と云う迚もスゴイ勢いで、走せ散じた次第なのであった」
(生方敏郎「ユウモアの旅」)
いまだ創業七年目の小学館が、「円本」ブームに乗り遅れまいと出版したのが『現代ユウモア全集』(当初は全十二巻、好評につき全二十四巻となる)だった。右記の引用は発刊記念講演会の模様を伝えたもので、「月報」(第二号)に掲載された。筆者の生方敏郎は名著『明治大正見聞史』で知られる評論家兼ユウモア作家であり、『現代ユウモア全集』の編集委員である。他の講演者は、堺利彦、佐々木邦、岡本一平という豪華出演陣で、いずれも『現代ユウモア全集』の著者の先生方が名を連ねている。佐々木邦は『いたづら小僧日記』『苦心の学友』などで人気の明朗小説の作家で、生方と一緒に『現代ユウモア全集』の編集委員をつとめていた。岡本一平は朝日新聞でお馴染みの人気漫画家、いまならあの岡本太郎の父親と紹介したほうが通りがいい。堺利彦は社会主義者ではあるものの、文筆代理業の「売文社」を始めたアイディアマンであり、『文章速達法』もある名文家だった。
「円本」ブームの先駆けとなった改造社の『現代日本文学全集』は大宣伝作戦も功を奏し、二十三万部の予約を獲得した。晩年の芥川龍之介が自宅の木にスルスルと登るフィルムを目にした人は多いだろうが、あのフィルムは改造社の「円本」のプロモーションで撮影されたものである。宣伝戦が如何にすさまじかったかがわかろう。「円本」ブームの最終走者『現代ユウモア全集』も、「ユウモアの夕べ」講演会を全国各地で開催した。この名古屋での様子は、「月報」に写真も掲載されている。愛知県県会議事堂には二千人の観客が集まったが、まだまだ和服姿が多数派という時代だった。
「ところが此処に端なくも一つの物議をかもしたのは、入場者の約三分の一は清楚たる妙齢の婦人であったのは先ず目出度いとして、さて此婦人聴講者は誰を目当に来たか、誰の雄弁に耳を傾けようとして来たかゞ、楽屋の問題と成ったことである。或は岡本一平君ならんと云い、或は佐々木邦君の愛読者だろうと云い、枯川老人[堺利彦のこと]老いたりと雖も「之は確に僕の崇拝者に相違なし」と頑張る。私といえども此若々しい名前の持主[「ウブ」方?]であるからには、必ずや「僕のユウモアにチャームされに来たのであろう」と信じるので、此勝負は先ず引分けと云うことにして仲よく結末をつけた」
(同右)
写真を点検するかぎりでは、「清楚たる妙齢の婦人」は見当たらない。先生方の視力に問題があるのではと心配するが、これも読者サービスの一貫かもしれない。時は昭和三年(一九二八年)、第一回の男子普通選挙が行われた年である。『江戸東京年表』をひもとけば、髙島屋呉服店に「マネキンガール」が登場、ダンスホールは十八歳未満の男女の入場禁止、その一方で、「婦人矯正会などが、婦人雑誌に横溢する性愛記事の取り締まりを内務省に請願する」といったモダン都市文化華やかなりし頃だった。
生方敏郎は「最も売れた自著とその頃の読者層」(「書物展望」昭和12・4)で、自分の本の読者は、「演説会で聴衆の顔を見るように判然と分るものではない」と断りながら、一番売れたのは『現代ユウモア全集』の一冊『東京初上り』だったと、嬉しそうに回想している。
「之は相賀武夫君の経営する小学館から、「ユウモア全集」の中の一つとして刊行したものであるが、之も亦た数万を売り尽し翌年の夏又七千の検印を取りに来られた。私が此時社長の相賀君に尤も感服したことは、最初此全集を立案した時、「五万も売れゝば、まあ宜しい。」と私に話された数と、購読申込を〆切った日の数と、殆んど同じ位だったことだ。最初の思惑よりも寧ろ約一万ばかり多かった。/又私の本で、新聞広告を大きくして貰えたのは、此本一つだ」
生方敏郎が文筆生活に入ったのは明治四十一年(一九〇八年)で、当初は読書人といえばほとんど文学青年に限られ、「純正文学」が読まれていた。変化は大正七年(一九一八年)頃に訪れる。「インテリさんの懐中」が暖かくなり、その経済事情は昭和四年(一九二九年)頃まで続く。その間に、社会的意識に目覚めたインテリ階級の読書人の数が、文学青年を凌駕するようになった。「天下の浪人」「太平の逸民」生方敏郎の書く文明批評、社会批評も受け容れられるようになったという。『現代ユウモア全集』の読者層もこのあたりが中心だったのではないか。
先ほどの講演旅行に小学館の社員として随行した鈴木省三は『わが出版回顧録』で、講演旅行の様子を回想している。鈴木は小学館創業時に少年社員として入社する。鈴木は相賀社長の七歳年下で、いまだ二十四歳という『現代ユウモア全集』の若き担当編集者だった。
「文芸書出版に実績のない小学館では、当時ユーモア作家として人気のあった故佐々木邦、生方敏郎氏の編集で、両氏の意見にもとづいて全十二巻にまとめることにしたのである。この企画には相賀夫人も大賛成であった。この不況時代に朗らかな笑いはもっとも必要なものだということを話され「しっかりやってね」とはげまされたのであった」(鈴木省三『わが出版回顧録』)
講演旅行は大盛況だったが、堺利彦が壇上で喋り出すと、すぐに臨検の警察官が「注意」「中止」を連発する。治安維持法が改正される直前で、言論統制はきびしくなっていた。その中で「ユーモア」という聞き慣れない外来語は新鮮だった。岡本一平は壇上で、ユーモアを解説した。
「ユーモアとはお風呂に入ったようなものである。お風呂に入ると湯気がもやもやとたちのぼってくる。これすなわち湯もあ──ユーモアである。湯ぶねにつかり、流しで体を洗う。まことに気持ちのいいものである。ユーモアとは、かく気持ちのいい、おもしろくもあり、また、たのしくもあるものなのである云々」
(同右)
これで爆笑がとれたというから、素朴な良き時代であった。生方敏郎については、鈴木省三は、小柄で風采のあがらぬ、ちょこちょこした人だったとしている。ベレー帽姿で現われ、講演はこんな風に始まった。
「諸君は、生方敏郎という男は、市川右太衛門のように好男子かと思ってやってきたのであろう。まったく僕のような好男子の顔を見ただけでも入場料五十銭のお値打は充分ある。これからのお話はおまけである。雑誌でいえば付録のようなものである」
(同右)
会場は笑い声でうずまったという。講演会がはねた後、鈴木たちは書店を招待しての宴会をもうけ、翌日は次の会場の下検分あり、有力書店の挨拶まわりありで、連日睡眠時間二、三時間のハードスケジュールだった。「小学館の全国的知名度と信頼度が、一気に上がった」と社史には記されている。『現代ユウモア全集』の利益は二十万円にのぼったから、大成功だった。
『現代ユウモア全集』は「円本」ブームの中ではオリジナリティの高い企画であり、装幀装画デザインにも心配りされたユニークな造本だった。生方敏郎の考えが反映されているのか、セレクションは小説類に偏らず、広く社会観察、文明批評、ビジュアル重視の世態風俗描写までをも含みこんでいる。いま読むと、昭和モダンの時代相が肌で感じられる全集となっている。
もしも今、『現代ユウモア全集』以後の「ユウモア」文学の集大成が出現したら、どんな顔触れが揃うだろうと想像することは愉しい。人さまざまな選択ができるほど、昭和平成令和の「ユウモア」は増殖しているし、選ばれるジャンルはさらに拡がっているのではないか。参考になるとしたら、吉行淳之介・丸谷才一・開高健の三人が編者となった『現代日本のユーモア文学』全六巻がある。昭和五十五年(一九八〇年)に立風書房から刊行されたアンソロジーである。ただ残念なのは、作品本位で選んでいて作家本位ではないこと、さらには「文学」が狭く解釈され過ぎているのが、「ユーモア」の富を狭めていることだ。里見弴、内田百閒、獅子文六、牧野信一、井伏鱒二、尾崎一雄、太宰治、木山捷平、久生十蘭、坂口安吾などの戦前組、武田泰淳、梅崎春生、安岡章太郎、阿川弘之、遠藤周作、北杜夫、田中小実昌、色川武大、野坂昭如、井上ひさしなどの戦後デビュー組、星新一、筒井康隆、小松左京などのSF出身、田辺聖子、富岡多惠子などの女流など盛り沢山ではあるのだけど。
私なら是非入れたいと思っている作家に、たとえば小沼丹がいる。井伏鱒二の弟子で、世代的には安岡、阿川に近い。小沼は英文学者で、早大教授でもあったが、その随筆の中に『現代ユウモア全集』が登場する。大学からの帰り道に、高田馬場の駅前広場で古本屋の露店が並んでいた。
「そのときは古本市で、「現代ユウモア全集」の端本が四冊あったからそれを買った。一冊は戸川秋骨集[『楽天地獄』]、一冊は牧逸馬集[『紅茶と葉巻』]、後の二冊は佐々木邦集[『明るい人生』『笑いの天地』]である。他に欲しい本が無かったのかどうか、その辺のところは忘れたが、何だかみんな懐しい名だから買う気になったのだ思う。(略)装幀挿画には石井鶴三、水島爾保布、田中比左良と云う名前があるから、これも懐しい。/買ってから知人と酒場へ行ったら、四冊の本を見た知人が、/──面白い本を買いましたね……。/とにやにやした」
(「古本市の本」小沼丹『珈琲挽き』に所収)
知人の「にやにや」には何ともいえない『現代ユウモア全集』の存在感があろう。いい年をしてというヒヤカシなのか、なかなかの掘り出し物ですなという共感なのか。この小沼丹の随筆では、佐々木邦と戸川秋骨が語られる。
「佐々木邦の名前は子供の頃から知っていた。少年雑誌を読んで、なかなか面白かった記憶がある。佐々木邦は明治学院の昔の高等学部を出ているが、「明治学院」を出ては「飯が食えん」と云ったと云う話が、伝説として明治学院に残っていた」
(同右)
「メイジガクイン、メシガクエン」という「洒落のような伝統」のあった明治学院はミッションスクールであるが、英語教育には徹底的に力を入れていた。初期の学生には島崎藤村がおり、戸川秋骨は藤村の同級生で、雑誌「文學界」も一緒にやっていた。佐々木邦と一緒に『現代ユウモア全集』を編集した生方敏郎も明治学院出身で、小さな学校だった明治学院出身者が、小沼丹も含めこれだけ揃っているというのは一考の価値があるだろう(佐々木邦の同級生は七人)。アメリカ文学のマーク・トウェインや、イギリス文学のチャールズ・ラムの匂いが、「ユウモア」にはまぶされているのではないか。そうやって考えると、『現代ユウモア全集』は、やはり同時期に「円本」として出版された講談社の『修養全集』とは対極にある。『現代ユウモア全集』では、いくら読んでも立身出世は望めまい。
戸川秋骨は明治学院を出た数年後に、東京帝大英文科の選科に学んだ。「選科」は卒業しても学士号は与えられない、いわば日陰者の学生だが、その時に傾倒した先生に「ケエベル先生」がいる。英文科の本科生だった夏目漱石も「ケエベル先生」については書いていた。その二人の比較を小沼丹はしている。
「秋骨の「ケエベル先生」を読んだら、見たことも無い昔の人が、急に身近に感じられて面白かった。漱石の小品もなかなかいいが、漱石の場合は何となく正式訪問と云う感じの文章だから、無論、秋骨の「ケエベル先生」とは違う。秋骨は「先輩」という文章のなかで、漱石の想い出話も書いている。戸山ヶ原の射的場近くで偶然会って路上で立話を始めたら、その立話が長長と続いたと云う話だが、それは割愛する。何でも漱石の死ぬ二カ月前のことだそうである」
(同右)
戸川秋骨の『楽天地獄』では、「ケーベル先生」の次が、晩年の漱石を描いた「先輩」となっている。小沼丹はこの二編を読んだ後、『楽天地獄』一冊をまるごと読んでしまったようだ。
戸川秋骨の随筆のファンには、評論家の坪内祐三もいた。坪内は『戸川秋骨 人物肖像集』という一巻選集を、みすず書房の「大人の本棚」シリーズで編んでいる。その解説では、『現代ユウモア全集』の『楽天地獄』を入手して、味読してもらいたいと推奨した。「きっとあなたも秋骨の「言い知れぬ妙味がある」文章世界にはまってしまうことになるだろう」と。坪内祐三は二〇二〇年に亡くなったが、もし今でも生きていたならば、昭和平成令和版の『現代ユウモア全集』の編集を買って出て、たちどころに百巻分の企画を思いついたことだろう。残念だ。
最後に、「月報」(第五号)の読者投稿欄(「会員通信」)に載った一読者の感想を紹介しよう。これもまた時代相をよくあらわしているからだ。昭和モダンの表面からは見えにくい声である。ペンネームは「一兵卒」となっている。
「私達軍人はユウモア全集はおろか世の中の文学書は一として手にすることを許されぬ様な殺風景な生活、その凄い幹部の目をしのんで毎月の発刊を待つ。佐々木先生、岡本先生等の作品殺風景の生活より私を救ってくれる。ユウモア全集位軍隊にて許されて欲しく思う。会員皆様と共にユウモア全集の発展を祈る」
平山周吉
Shukichi Hirayama
1952年生。雑文家。慶應義塾大学文学部国文科卒。文藝春秋社で雑誌、書籍の編集に長年携わる。『江藤淳は甦える』(新潮社)で小林秀雄賞、『満洲国グランドホテル』(芸術新聞社)で司馬遼太郎賞、『小津安二郎』(新潮社)で大佛次郎賞を受賞。著書はほかに『昭和天皇「よもの海」の謎』(新潮社)、『戦争画リターンズ──藤田嗣治とアッツ島の花々』(芸術新聞社)、『昭和史百冊』(草思社)。