佐藤正午さん『冬に子供が生まれる』インタビュー改め、インタビューふうリポート
本が出来てもいないのに。
2023年、年の瀬も押し迫った某日、そのミッションは遂行されました。場所は、作家が暮らす佐世保市内にあるホテルの一室(喫煙可)です。
待ち合わせの喫茶店で軽く昼食を済ませたあと、編集者は作家とホテルのエレベーターに乗り込みました。そしてICレコーダーのスイッチをそっと入れました(事後ご本人の承諾済み)。
──8階の部屋です。
「オオキくんさー、まだ本が出来てもいないのに『サイン本』て、おかしくない?」
そうです、この日のミッションは、佐藤正午さんの新刊『冬に子供が生まれる』のサイン本づくり。まだ本は印刷されてもいませんでしたが、本の表紙と中身をくっつける「見返し」と呼ばれる紙に、製本前の段階であらかじめ作家にサインをしていただく約束なのです(ちなみに「オオキくんさー」の「オオキ」は編集者の名前です)。
「きのうの取材だって、まだ本も出来てないのに……。僕、きょう何枚サインすればいいの?」
──600枚用意してあります。
「ろっぴゃく!」
──以前、このホテルで『身の上話』のサイン本100冊、1時間足らずで仕上げたんですよね?
「うん、ほんと1時間もかからなかった。でも、えっ、ろっぴゃく?」
──記録ですか?
「いや、記録は記録だろうけどさ、ろっぴゃく?」
──これでも控えめな数字です。
「そうなの?」
──今回は「見返し」だし、きっと以前よりはかどりますよ。
「そうかなぁ、そんなに僕のサインほしいひといる?」
ミッションに備えて、部屋の準備は万全です。窓際にある丸テーブルの上には、太めのサインペン数本、その横に置いた「見返し」はとりあえず50枚。残る550枚も50枚ずつの束に仕分けてあります。つまり50枚を12セット(もちろん1枚1枚真心こめて)仕上げていただければ、この日のミッション完了です。
──部屋の温度とか、だいじょうぶですか?
「うん。コートそこに掛けといてくれる?」
──はい。正午さんはこちらの椅子へどうぞ。
「で? 僕はここにすわってサインしてけばいいの? この紙に」
──そうです、紙の向きだけまちがえないように気をつけてください。オオキはこっちの机でハンコ捺して追いかけますんで。
「わかった。んじゃあ、はじめる?」
──よろしくお願いします。
「あ、でもその前に、別の紙に何回か練習していい? ひさびさだから、サインするの」
わかんなくなってきたー!!!
こうして、『冬に子供が生まれる』サイン本づくりのミッションは、静かにスタートしました。作家も編集者も、ミッション中はお互い真剣です。室内には、作家がペンを紙の上に滑らす音がするくらいで、黙々とサインと捺印をすすめる時間がほとんどでしたが……。
──これって漢字で「正午」って書いてあるんですよね?
「そう。誰でも書ける(笑)」
──で、最後の「S」が、「佐藤」の「S」?
「うん。オオキくん、その『S』のとこにハンコ捺してね、ちょっと場所がちがう」
──正午さん、昔からこのサインだったんですか?
「いや。94、95年くらいだったかなぁ、デビューして10年くらいしてから」
──それまではどう書いてたんですか?
「サインなんて求められなかった(笑)」
──(笑)
「このサインね、Pooh Bah のママが考えてくれたんだよ」
──まじスか!
「だから上手いんだ、ママが書く僕のサイン。なかなかあんな恰好よく書けない」
少し補足すると、「Pooh Bah」とは、正午さんが当時よく足を運んでいた飲食店の名前です。そんな雑談(知られざるエピソード!)を時折ぽつりぽつりとまじえながら、さらに黙々とサインを重ねていきます。
それはちょうど「6セット」に入ったあたりのことでした。ちょっとしたハプニングが起こります。作家がいきなり(珍しく)大きな声をあげたのです。
「わかんなくなってきたー!!!」
──どうしたんスか?
「これ……」
──ん?
──あれ、折り返しがひとつ足りない? え、正午さん、自分のサインわからなくなっちゃったんスか?
「…………」
──これはこれでレアものですよ。エラーコインみたいに価値が付いたりして(笑)
「うーん、でも本屋さんで並べてもらうんでしょこれ、ちょっとマズいんじゃない?」
──冗談ですって。ボツです、これは使いません。
「だいじょうぶなの、それで。ろっぴゃくまいとかなんとか」
──確か、こういう場合の予備も含めての枚数だったんで。
「ああそう」
ゲシュタルト崩壊、ともいえる現象に作家が見舞われ、ここで少し休憩をとりました。たばこを一本ゆっくりと吸い終え、ペットボトルに入ったあたたかいお茶でひと息ついた作家は、持参したエコバッグのなかをおもむろにまさぐりはじめました。
──何が入ってるんですか。
「それはほら、サイン用の落款とか老眼鏡とか常備薬、あと耳あて……あれ? 僕、耳あてどうしたっけ?」
──へ? ないんスか。
「うん、コートのポケットかな?」
──ちょっと待ってくだい、いま確かめますんで。……ないですね。
「じゃあ、さっきの喫茶店に忘れちゃった?」
──まじスか!? 電話してみましょうか。
「番号わかる?」
──領収書見れば。ご自宅からは着けてきたんですよね?
「うん、それはまちがいない」
──あ、もしもし。ランチタイムに「小学館」の宛名で領収書もらった者ですが……
開眼したよ!
喫茶店のかたによると、正午さんご愛用の耳あて(防音&防寒用)は、昼食をとったテーブルの下で見つかりました。ミッション終了後、ふたたび足を運んで忘れ物をピックアップしたいところですが、年末でこの日はいつもより早く閉店予定とのこと。──間に合うのか。
タイムリミットが設定されたことで、ここから作家はエンジン全開、「全集中」の気合でサインに励みました。そして──〝その瞬間〟は訪れます。「8セット」も終盤を迎えたときのことです。
「これすごいわ、これ!」
──なんスか、いきなり。
「見て、筆書きみたいだよ、これ!」
──おおお! なんか線にメリハリと勢いがあって恰好いいスね! どうしちゃったんスか、正午さん。
「目覚めたんじゃない? 僕。開眼したよ! ほら、明らかに変わってる。これはいいわ! これだよこれ!」
──(笑)この調子でお願いします!
「これ自分でも1冊ほしいくらいだわ。オオキくん、これ僕もらえないの?」
──見本が出来たら自分でサインすればいいじゃないスか(笑)
「ちがう、きょう書いたやつ」
──そうスね、きょうのサインはどれも貴重ですからね。
「あぁ、……やっとサインが決まった。ここまで来るのに40年かかった」
作家生活40年、「サインが決まった」瞬間です。
「開眼した」作家のペンは、ここからさらに波に乗って加速。ホテルに入ってからおよそ4時間半が過ぎたところで、用意した「見返し」にはすべて佐藤正午さんのサインが埋まりました。見事ミッションコンプリートです。
(たいせつな耳あてもこの日のうちに作家の手に戻りました)
ちなみに。
編集者は後日、正午さんのサインを考案したという Pooh Bah のママを取材。そのときじっさいに書いて見せていただいた〝オリジナルサイン〟がこちらです。
こちらのサインについてコメントは控えますが、あのとき思わず「開眼したよ!」と口にした作家のことばの重みとともに、〝オリジナル〟の存在を決して忘れない作家のやさしさやユーモアを、編集者はしみじみと噛み締めたのでありました。
というわけで。
佐藤正午さんの直木賞受賞第一作『冬に子供が生まれる』は、ただいま好評発売中です。
あの日、紆余曲折を経て用意したサイン入りの「見返し」は、その後ぶじ「サイン本」として製本され、全国各地の書店に搬入されました。ただし「サイン本」は数量限定です。もし書店で遭遇したらそれは、幸運、でまちがいないはずです。迷わずレジへGOですよ。
そして、たとえ著者のサインがなくても、佐藤正午さん7年ぶりの新作長編『冬に子供が生まれる』は、〝小説を読むたのしみ〟にあふれた作品です。こちらもきっとまちがいはございません。
サインの有無にかかわらず、たくさんのみなさまにこの作品をおたのしみいただけますように。
『冬に子供が生まれる』
佐藤正午=著
小学館
佐藤正午(さとう・しょうご)
1955年長崎県生まれ。83年『永遠の1/2』で第7回すばる文学賞受賞。2015年『鳩の撃退法』で第6回山田風太郎賞受賞。17年『月の満ち欠け』で第157回直木賞受賞。ほかの著作に『Y』『ジャンプ』『5』『アンダーリポート』『身の上話』『小説の読み書き』『小説家の四季』など。