寺地はるなさん『こまどりたちが歌うなら』*PickUPインタビュー*
自分が納得できるよう、変化していった作品
主人公は小さな和菓子の製菓会社に再就職した女性
主人公はもちろん、登場人物一人一人の変化や成長が胸を打つ。寺地はるなさんの新作『こまどりたちが歌うなら』は、小さな和菓子の製菓会社を舞台にした働く人々の物語だ。
「二〇二〇年に『水を縫う』を出した後から次の連載の打ち合わせを始めたので、もう四年近く前です。『水を縫う』が家族の話だったので、次は職場を舞台にしようと考えました。和菓子の会社を舞台にしたのはたまたまで、前日にお団子を食べていた程度のきっかけです。特別な取材はしていなくて、近所の和菓子屋さんに行って〝これは誰が作っているんですか〟と聞いたくらい。ただ、自分も働いた経験があるし、小さな会社の内実については知っていました」
新卒で就職した会社で疲弊して退職した二十七歳の小松茉子は、親戚の吉成伸吾から声をかけられ、彼が社長を務める吉成製菓に再就職する。会社には工場と事務所と直営の店舗があり、茉子は事務所で総務や経理などの細かい仕事をすることとなる。伸吾自身も他業種から就任してまだ数年で、会社の実権は彼の父である会長が握っている。入社してすぐ、茉子は理不尽なルールに困惑するのだが……。
実は本作、一度書き上げた後で全面的に改稿したのだという。
「最初は善悪の構造がはっきりしていたほうがいいのかなと思い、会長や上司が嫌な奴で、主人公の影響で職場が変わっていく話を考えていたんです。そのほうが受け入れられる気がしたんですよね。でも全部書いた時点で何か違うなと思って。何度か軌道修正を加えてもうまくいかず、そもそも自分は善悪がはっきりした物語を読みたいのかと考えた時、あまり読みたくないなと気づいたんです。話を盛り上げるために誰かを悪者にするのは何かが違うと思い、自分が納得いくように書き直したら今の形になりました」
〝何かが違う〟という感覚は、当初からあったのだろうか。
「そうかもしれません。よく〝自分が読みたいものを書けばいい〟と言いますが、私の場合、自分が読みたいものを書いてもみんなにとっては面白くないんじゃないかと悩むんです。それで、最初は自分が読みたいものより受け入れられやすいものを考えていた気がします。それと、三年くらいの間に気持ちの変化もありました。PTAや町内の子供会の役員をすると、すごくアナログなやり方が残っていたりするんです。もっと便利なやり方があるのにと思ったけれど、アナログでないと対応できない人もいる。古いやり方に見えても、いろんな人が長年やってきた中でたどり着いた最適解がそれだった、ということもあると気づきました。そういう経験も大きかったと思います」
会社内の古臭く理不尽な「見えないルール」
主人公の茉子は、どのような人物像をイメージしたのか。
「何か特別ひねているわけでもなく、真っ直ぐすぎるわけでもなく、社会に出て数年経った人の倫理観を持ち合わせ、家庭の問題を抱えていない設定にしました。会社でいろいろあるのに家でもいろいろあるのは、読んでいる人もきついだろうなと思って。それと、割とすくすく真っ直ぐ育ってきたゆえの気づけなさ、見えなさもある気がするので、そういう欠点と、でもやっぱり素直さで人に受け入れられるプラスの面と、両方を出せたらいいと思いました」
物語の始まりでは、読者は寺地さんが当初考えたような、茉子が会社の悪者と対決する展開を予想するかもしれない。入社早々、彼女は残業の前にタイムカードを押すように言われて戸惑う。他にも、経費に関して精算書を書かずに領収書だけ提出されたり、留守電があるのに昼休みに電話番をしなければならなかったり、有休や代休を取りにくい雰囲気があったりと、茉子は次々と理不尽なことに遭遇する。
「ひとつひとつは小さなことなんですよね。自分が働いていた頃にでくわした、就業規則に載っていないルールや、本業とは違うさまざまな煩雑な些事の記憶を詰め込みました」
些事も積もれば大きな負担となる。そうした社内の「見えないルール」を見直していこうとする茉子だが、伸吾は会長の言いなりで頼りなく、ベテランパートタイマーの女性、亀田は無愛想で、威圧的な営業マンの江島からは「コネの子」と呼ばれ「かわいげがない」と嫌味を言われる。
しかも江島は毎日のように部下の正置を怒鳴りつけ、時にぎょっとするくらいひどい言葉を投げつけている。正置は素直に従い、周囲も江島を「根はいい人」扱いで、明らかなパワハラを放置している状態なのだ。
「江島さんみたいな人って本当にいますよね。そういう人がいると、自分が𠮟られているわけじゃなくても、同じ空間にいるだけで確実に削がれるものがあるのは私も働いていた頃に経験しました。でも、𠮟られている側も自分を被害者と認めたくない意識がある。〝俺はパワハラなんて受けてない〟って言ってしまうところを書きたいなと思っていました」
茉子の先輩となる亀田は、かつて正社員だったが結婚・出産を機に退職、その後戻ってきたという。じつは彼女もかつては職場の不可解な習慣や暗黙のルールに異を唱えていたというが、今は黙々と働いている。
「怒り続けるのは疲れるし、怒りを怒りとして受け止めてもらえるならまだしも、〝またなんか言ってるよ〟と物笑いの対象にされるのって嫌ですよね。それなら怒りを吞み込んだほうが楽だという気持ちになることはあると思って書きました。それと、亀田さんと茉子という組み合わせにしたのは、パートと正社員、年配の女性と若い女性という組み合わせが出てくると、どうしても〝なんか(意地悪したりされたりなど)いろいろあるんでしょ〟みたいな偏見を持たれがちなので、そういうわけではない、ということを書きたかったです」
やりがいを求める話にはしたくなかった
吉成製菓の職場の古いルールや「暗黙の了解」の様子を丁寧に描写したのは、きっかけがあったという。
「遊園地で働く人たちを書いた『ほたるいしマジカルランド』を出した時、読者の感想ブログを見つけたんです。評価は星二つで、〝お金のため、生活のために働くのは分かるけれど、お仕事小説なんだから、それを越えたやりがいを見つけるところを書いてほしかった〟とありました。それを読んで、私、この人が星一つをつけるような小説を書こうと思ったんです」
天邪鬼に聞こえるかもしれないが、ちゃんと理由がある。
「確かにやりがいを持って働くことは美しいと思います。でもそういう物語はすでにたくさんあるし、これからも生まれるはず。だから私は別に書かなくていいかな、って。自分は違うものを書きたいと思いました。つまり、前任者から引き継いだ事務用品のカタログに付箋がいっぱいついて細かい指示が書かれていることとか、タイムカードをスタンプしてから残業するといった、訳の分からない部分です。それが働くってことだと思うので」
そうした訳の分からない部分に対して、茉子は「言わないとはじまりません」「前例がない場所では、自分が前例になるしかない」と言って、声をあげていく。
「読んだ人が、文句は言っていいんだと思ってくれたらいいな、と考えながら書きました。これは怒っていいことだよね、みたいに思ってもらえたら」
働く人それぞれの個性と事情と頑張りと
舞台は社内だけではない。同じ町にある吉成製菓の店舗『こまどり庵』に手伝いに行き、クレーマーに難癖をつけられて動揺することも。
「店舗の話もあったほうが楽しいだろうし、お客さんとの触れ合いが茉子ちゃんの考えに影響を及ぼすと思いました。それに、クレーム客は上手にいなすのが大人の対応、みたいなことでは駄目だなと思っていて。そこでもやっぱり、怒っていいんだってことが言いたかった」
後日、店舗では茉子の幼馴染みの満智花と、千葉という女性が新しくアルバイトとして働き始める。千葉はクレーマー客に毅然とした態度をとるタイプで、逆に満智花は萎縮するタイプ。そんな彼女たちを時に厳しく指導するのがベテラン店員、中尾で、彼女らの関係の変化も読みどころ。
少しずつ、事務所でも店舗でも、一人一人仕事の方法論や向き合い方、個人的な事情も違うのだということが浮き彫りになっていく。はっきり意見できる人もいれば、そうでない人もいる。そんななか、ある時茉子が、しごく真っ当なことを口にしたつもりなのに「残酷やな」と言われる場面が印象的だ。
「茉子ちゃんはいい子だし、強くてしっかりしているけれど、子供の頃から承認されて生きてきた彼女には承認されずに生きてきた人の心情に寄り添うのはまだ無理だと思う。それをうっすら残酷だなと思っていた人が、ぽろっと口にする場面です。私の中にも、茉子ちゃん的な真っ当さを気持ちよく思う部分と、その通りにはいきませんよ、っていう気持ちの両方があります。書きながら、時に茉子ちゃんの気持ちになり、時に相手の気持ちになっていた気がします。どの人がいちばん正しいという結論は決めていませんでした」
葛藤や逡巡を抱えながらも、職場の人々も茉子も、一歩ずつ進んでいく。
「主人公が何らかの働きかけをして周りの人が変わって主人公に感謝する、という話にはしないと決めていました。小説内の脇役は主人公に助けてもらうのを待っている存在じゃなくて、それぞれ生きている存在なので。だからみんな、自分の力で何かを変えなければならない事態が発生して頑張っていくんです」
言葉にしなければ何も伝わらない
理不尽なことに対して異を唱えていい、声をあげていいんだ、という思いが伝わる本作。と同時に、なにげない言葉で誤解が生じる出来事など、会話や対話の難しさも盛り込まれる。だからこそ、終盤の展開の説得力が増すともいえる。
「言葉を尽くしても伝わらないこともありますが、言わなかったらもっと伝わらない。言葉が通じない人もいるし、会話にまで持っていけない人もいる。それでも、言うべきことは言っていこう、と思います。私も以前は、会話が成り立たない相手には〝もうなにも言わんとこう〟と思いがちでした。たとえば、〝今日寒いね〟と言った時に、〝今日気温高いよ?〟と返してくる人がいたら、自分の〝寒い〟という素朴な感想を否定された気がして、それ以上何も言えなくなってしまったりして。でも最近は、〝いや、今は私が寒い、って話をしてんねん〟って言えるようになりました(笑)」
ちなみに、さまざまな和菓子が登場するのも本作の魅力。吉成製菓の看板商品は『こまどりのうた』という饅頭だ。こまどりは高い声を出すという特徴があるというから、シンボリックな存在として登場させたのかと思いきや、
「偶然なんです。字面と響きがいいなと思って選び、あとから調べて高い声を出す鳥なんだと知りました」
これがうまくはまった。読後には澄んだ高らかな声が聞こえてくるような気がする、気持ちのよい一冊である。
寺地はるな(てらち・はるな)
1977年佐賀県生まれ、大阪府在住。2014年『ビオレタ』でポプラ社小説新人賞を受賞しデビュー。21年『水を縫う』で河合隼雄物語賞受賞。23年『川のほとりに立つ者は』で本屋大賞9位入賞。『大人は泣かないと思っていた』『カレーの時間』『白ゆき紅ばら』『わたしたちに翼はいらない』など著書多数。