初めて読む人や受験生にもオススメしたい、角田光代訳『源氏物語』

これまで与謝野晶子や谷崎潤一郎など、多くの作家が手がけてきた『源氏物語』の現代語訳。リアルな感情描写に定評のある角田光代さんによる現代語訳が、読みやすくておもしろいと大人気です。難しそう、長くて大変そう……と敬遠してきた人こそ手に取ってほしい、新しい『源氏物語』になっています。下巻刊行を機に、今だから明かせる翻訳秘話などをうかがってきました。

――今回の現代語訳は、この全集の編集者である池澤夏樹さんからのご指名であったと伺っています。池澤さんはなぜ、角田さんを指名されたのでしょうか?

角田さん(以下、角田):なぜだかわからなかったんですが、上巻・中巻が出てからお話ししていくなかで、池澤さんは「この長い物語を、古典というよりも現代の小説みたいに読んでほしかったので、角田さんに頼んだ」とおっしゃっていました。でも、たぶんですけど、依頼をしてくださったときにはそこまで考えていなかったと思います(笑)。なんとなく、角田さんじゃないかな、と。そして、できあがってくるものを読むにつれて、「現代的な小説っぽいなあ」と思って、そう言ってくださったんじゃないかと思っています。

――指名された理由はわからなかったんですね。それでも受けようと思われたのは、なぜでしょうか?

角田:池澤夏樹さんって、私が唯一、サイン本を持っている作者なんですね。『海図と航海日誌』という本なんですが。つまり、好きなんですね。それも、かなり若い頃にサイン本をもらった、サイン会に行ったくらいのファンなんです。だから池澤さんの名前が出てきたからには断るわけにいかない、という気持ちが一番強かったですね。

池澤夏樹_海図と航海日誌
出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4916017803/

――角田さんが書かれた『八日目の蝉』の主人公・野々宮希和子と、『源氏物語』の紫の上ですが、どちらも自分の愛する男性が他の女性との間に設けた子供を引き取って育てていますよね。そこが共通してるかな、もしかして池澤夏樹さんはそれを読まれたのかな、なんて思ったんですけれども。

角田:うーん、どうでしょう。でも池澤さんは『八日目の蝉』が大好きで、文庫本の解説も書いてくださってるんですよ。

――ああ、そうでした!

角田:そうなんです。紫の上と希和子を重ねたかはわからないんですが、『八日目の蝉』みたいな、ある意味、疾走感のある小説でということは、以前おっしゃっていました。

――では、あながち外れてはいないかもしれませんね(笑)。その2人の共通点については、いかが思われますか?

角田:今聞いてびっくりしました。なるほど~と思って。そうでしたね、紫の上も子どもができないという設定ですものね。なるほど、でも私は気づかなかったです。よもや、よもや。

八日目の蝉
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スピード感を大切に、出来事を際立たせることを心がけました

――『源氏物語』の現代語訳は、与謝野晶子、谷崎潤一郎から、瀬戸内寂聴、林真理子など、多くの作家が手がけています。それぞれその方らしい特色がありますが、角田さんの現代語訳はほぼ原文をそのまま忠実に訳されていて、しかもすらすら読めてわかりやすいですね。初めて読む人や受験生にもオススメしたいと思いました。現代語に訳されるにあたって、最も心掛けられたことはどういったことでしょうか?

角田:最も心掛けたことはやっぱりスピード感ですね。

――スピード感ですか! すごくあると思います。

角田:ありがとうございます(笑)。あと、出来事ですね。「何が起きたのか」ということを際立たせたかったので、たとえば着物の説明だとか、朝廷行事の説明だとかを、カッコして注を入れるということはしなかったんです。そこは飛ばしちゃうくらいの勢いで、出来事として何が起きたのかというのを常に大事にしました。

――たとえば、髪型の説明なんかも、しっかり書く人もいますけれど、角田さんはわりとさらっと書かれてますよね。こう角髪みずらを結ってとか、流すといったら変ですけど、さらっと書いておられます。

角田:そうですね。

源氏物語_上
出典:https://www.amazon.co.jp/dp/430972874X/

――余計な情報が入り込まないので、かえって物語が際立ちますね。また、(そう)()()(物語の中で、説明のために作者の意見などが、なまのままで述べられている部分)を除くと全部「である調」で書かれていて、草子地のところは「ですます調」ですね。草子地がくっきりと浮き上がって印象的な構成になっていると感じたのですが、その文体はどのように決められたんでしょうか。

DSC02208角田:「地の文はばーっと読んでほしい」というのがあったんです。なので敬語はいっさい使わないということと、「である調」にするというのを最初に決めました。はじめは草子地の部分も使い分けるのがちょっとカッコ悪いので、「である調」にしていたんです。でも、やっていくにつれて、作者の声がすごく、うるさいぐらい出てくるんですよね。それも、歌をいくつか詠んだあとで、「ちょっと書きすぎてもアレだから、くわしくは書きませんけどね」のように言い訳みたいなことも結構出てくるので、これはいっそ作者あるいは話者、伝えきいて話している女房が、自分の声で言っているみたいにしたほうが、読者には身近にとってもらえるかな、と思って、草子地だけ「ですます調」にしました。

――話者が「これは余計なことですけどね~」みたいなことをぽろっと言ったりしますよね。原文では注意深く読まないとわかりづらいそういうところが、非常に鮮明になったと思います。

 

下巻の主要登場人物、薫大将のこんなところが嫌!

――ところで、最初に源氏に何の思い入れもなかったとおっしゃってましたよね。

角田:はい。

――それは今でもそうですか?

角田:今でもそうですね……。でも最初の、本当に何の興味もないっていうのとちょっと違って、まあ、おもしろい話だなとは思うようになりました(笑)。

――今、好きなキャラクターとか、逆に嫌いなキャラクターっていうのは……?

角田:作者はこの登場人物をすごく愛していただろうなとか、逆に作者はこの人を嫌いだっただろうなというのはあるんですけど、私自身が好きな人、特にこの人に思い入れがあるというのはないですね。ただ、大嫌いな人は一人いて……。

――それは誰ですか?

角田:最後に出てくる薫が、私は本当に嫌で嫌で。

――えっ、薫ですか? それでは、今回の下巻は結構つらかったのでは?

角田:もう、つらかったです(笑)。慣れるまではつらかった。

源氏物語_下
出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4309728766/

――それはちょっと意外でした。薫って、この全部に出てくる男の方の中で、一番まともに見えるといいますか……

DSC02195角田:人間らしいっていうことですかね。

――はい。

角田:人間らしいとは思うけれども、嫌でしたねえ。たとえば、自分はすごく堅物で、まじめで、仏のことばかり考えていて、下心なんて持ったことないと言いながら、やっていることは策略を張り巡らせ、どうすれば世間に悪く言われずにこの女を落とすか……みたいなことばかり。じゃあ落とせる状況になったときに落とすかといえば、落とせない。でもそれも言い訳ばかりして、相手のせいにすらして悔やみ続ける。なんていうのかな、口先と行動がちぐはぐ。そういうところが、もう本当に頭にきて(笑)。

――ちぐはぐという意味では、光の君も私は潔白なのにと言いつつ須磨に行ったりとか、若干ありますよね。

角田:でも、光源氏は女をさらったり、幼女をさらったり、人妻を襲ったりしますけど、ちゃんとフォローしますよね。面倒みるし、そしてやり方がスマートですよね。

――確かにそういうスマートさは、薫にはないですね。そうしますと、大君(おおいぎみ)が最後まで拒んだっていうのは理解できるということでしょうか?

角田:大君は薫が嫌で拒否したというよりも、この人ともし恋仲になったとしてもきっと自分は幸せになれないとか、相手のことを嫌になるとか、相手からも嫌われてしまうだろうみたいなことを恐怖したと思うんです。それで拒んだ。薫の嫌さっていうのは、実は登場人物たちは気づいていない、と思います。

――うまくやっているわけですね。

角田:はい。作者だけが知っていて、策略を巡らすところを非常にこまやかに書いていたりするだけで、みんなはいい人かもしれないと思っていたり、生活の面倒みてくれるし……みたいに思っている。

――匂宮も気づいていないでしょうか。

角田:気づいてないと思いますね。

――ということは、一番うまく世の中をわたっていたのも、薫かもしれないですね。

角田:はい、そういうところも嫌なんですよ(笑)。

伏線があり、回収もされていて、イメージよりずっと緻密な物語でした

――逆に、ご自身に近いと思われるキャラクターはいましたか?

角田:あまりいないですね。でもやっぱりおもしろい話だと思うようになりました。取り掛かる前のイメージでは、もうちょっと雑な話だと思っていたんです。長すぎるし、昔に書かれているし。なんていうか、辻褄が合わなかったり、矛盾点がいっぱいあったりして、それでもなんとかつながっているような話なんだろうと思っていたんですね。でも実際に訳してみたらそんなことはなくて、非常に緻密につながっているし、伏線が張られていて、回収もされていて……。なので、どうしてこんなことが千年前にできたんだろうって、興味は持つようになりました。

――紫式部が書いた物語って、これだけですよね。処女作ということになると思うんですが、いきなりこれが書けてしまったのは凄い。五十四帖あるうちの、一番お好きな巻というのはどれですか?

角田:「若菜」の上下が非常に好きです。中巻の。

源氏物語_中
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――女三の宮降嫁のところですね。どういったところがお好きですか?

角田:今でいう小説の形に非常に近いと思うんですよね。すごくしっかりできているし、ある種ひとつの山場というか、それこそ処女作で書き出して、最初はぎこちない……ストーリー運びとかもぎこちないのが、書いてるうちにどんどんどんどんうまくなってしまって、「若菜」でもう頂点くらいうまくなったなって気がするんですよ。完成度が非常に高いと思います。

――書いてるうちに、紫式部も成長していっているということですね。

角田:はい。

――よく複数の人間が書いているとか、「宇治十帖」だけ作者が違うんじゃないかと言われますけれども、そうではなくて、一人の紫式部がどんどん成長して書いていったというような感じを受けられますか?

角田:私は古語が読めないので、古語の文体がどう変わったかっていうのはわからないんです。「宇治十帖」は文体が全然違うって言いますけれども、古語自体が変わったかというと、そこまでは私の知識ではわからないんですね。ただ、全体の中で「宇治十帖」に行く前の話は、もしかして他人があとからくっつけたかもということは、考えたりしました。横道にそれるところです。「匂宮」から「竹河」までの三つですね。

――確かにここは、説明的なことが多いですよね。匂宮の情報であったりとか、源氏とかかわった人々のその後が書かれていて、本筋とはちょっと違いますね。

角田:ほかの人が書いたか、あるいは作者が終わったのに続きを書けと言われて、書きあぐねて、ちょっとその後の顛末を書いてるうちに、新しい展開を思いついた、その思いつくまでの付けたし、みたいな気もしました。

――「とりかかる前は、この壮大な物語に、私ごときが触れてもいいのだろうかと思っていた。実際にとりくみはじめて、私ごときが何をしてもまるで動じないだろう強靭な物語だと知った」とおっしゃっていますが、その強靭な物語に4年取り組まれて、何か今後の執筆活動に影響がありそうだなとか、こういった方向も書いてみたいなとか、そういったことは何かございますか?

DSC02217角田:それはまだわからないんです。5年間小説を書いていないので、これからわかるんじゃないかなあと思います。今のところはまだ何も実感はないですし、わからないですね。

――何か影響があったらおもしろいですね。

角田:訳をやっていてつらいときに、いろんな方から「でも絶対、訳し終えたら、あなたの小説も変わるよ」って、言われ続けていました。わりとそれに、その言葉にすがるように頑張っていたので、変わってほしいって自分では思うんですけど、実際はまだまだわからないですね。

――逆に、変えられてたまるか、みたいなところもありませんか?

角田:それはないですね。逆に、5年間もやって、何も影響がなかったらどうしてくれようって(笑)。今はやっと終わったなあって、ほっとしています。

ほかにも読んでみたい、『源氏物語』のいろいろ

これまでにも多くの作家の手で現代語訳されてきた『源氏物語』。訳を手がけた作家には、与謝野晶子や谷崎潤一郎、円地文子、瀬戸内寂聴など、そうそうたるビッグ・ネームが並んでいます。与謝野晶子は各帖の冒頭に自作の和歌を添えていますし、谷崎潤一郎は上方の言語感覚を大切に訳しているという具合に、いずれも書き手のこだわりや特色がよく出たものとなっています。いちど読み比べてみてもおもしろいかもしれません。
林真理子の『六条御息所 源氏がたり』と『小説源氏物語 STORY OF UJI』は現代語訳ではありませんが、『源氏物語』を元に翻案、独自の小説世界を切り開いたものとして、若い女性を中心に人気を集めています。他にも橋本治『窯変 源氏物語』や、田辺聖子『新源氏物語』が翻案ものとしてよく知られています。

源氏_林真理子
出典:https://www.shogakukan.co.jp/books/09406337

宇治_林真理子
出典:https://www.shogakukan.co.jp/books/09406589

また、1921~1933年にかけて、イギリスの作家アーサー・ウェイリーが世界で初めて『源氏物語』を英訳していますが、このウェイリー版を日本語に訳し直したのが『源氏物語 A・ウェイリー版』です。装画に『接吻』などクリムトの名画を採用し、「帝」を「エンペラー」、「更衣」を「ワードローブのレディ」など、英訳からとったカタカナ語を訳文に生かし、国籍不詳の恒久的な愛の物語に仕上げています。

源氏_ウェイリー
出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4865281630/

これだけ多くの現代語訳、翻案があるのも、ひとえに『源氏物語』自体のおもしろさ、完成度の高さが、作家たちを魅了してやまなかったからでしょう。この機にいちど『源氏物語』の世界に触れてみてはいかがでしょうか。

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初出:P+D MAGAZINE(2020/02/25)

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