最果タヒ『夜空はいつでも最高密度の青色だ』––「レンズのような詩が書きたい」に込められた想い。

インターネットを中心に「現代詩」の新たな可能性を示し続ける詩人、最果タヒ。2017年5月27日に著書『夜空はいつでも最高密度の青色だ』を原作とする実写映画が公開されることでもさらなる注目を集めています。ジャンルにとらわれない、自由な作品はどのように生み出されているのか、詩が映画化されるというのはどういうことなのか。作家インタビューを通してさまざまな思いをお聞きしました。

インターネットの発達により、私たちの周りにはあらゆる情報があふれる状況が当たり前になりました。しかし、人と情報があふれる都市では、自分の居場所を見失ってしまい、生きづらさを感じている人も少なくありません。

そんな「今」を不器用に生きる男女を、2017年5月27日に全国公開される映画『夜空はいつでも最高密度の青色だ』は描き出しました。

原作は、10代、20代といった若い世代を中心に支持を受けている詩人、最果タヒによる詩集です。現代に生きる人々が抱く繊細な心の動きを丁寧に表現した今作は、多くの読者を獲得し続けています。

saiihate-tahi1
出典:http://amzn.asia/iEWI12O

また、タヒ氏は詩作以外にも小学館の雑誌「きらら」で小説『恋の収穫期』の連載を開始したほか、女性アイドルグループ“あヴぁんだんど”や”虹のコンキスタドール”への歌詞提供など、幅広い活動を続けていることでも大きな注目を集めています。

Tahi_logo01_RGB

そしてインターネットにおいて自らの詩をインベーダーゲームのように打ち消していく「詩ューティング」、Webカメラに映し出された人物から言葉が生み出されていく「わた詩」など、新たな詩の楽しみ方、見せ方を私たちに示しています。「現代詩」の枠にとらわれない、新世代の詩人である“最果タヒ”とは、どんな存在なのでしょうか。今回、P+D MAGAZINE編集部は著者インタビューを通じ、創作秘話や、表現方法、作品に込めた想いをはじめ、原作者として映画化に抱いた印象などに迫りました。

1行目が出てこないことには始まらない。最果タヒの創作秘話。

––最果さんの作品には、特定のジャンルにとらわれない、自由なイメージを感じます。言葉の魅力やおもしろさを知ったきっかけはありますか?

最果タヒ氏(以下、最果):中学生の時、BLANKEY JET CITYやはっぴぃえんどの松本隆さんの歌詞をきっかけに言葉のおもしろさに気づきました。

 
––詩や小説といった文学作品ではなく、歌詞だったんですね!歌詞のどんなところにおもしろさを感じたのでしょうか?

最果:文脈が無いところですね。次々に言葉が意外なところに飛んでいくのがカッコよく思えて、「私もそんな日本語が書きたい」と思って、文章を書くようになりました。
普通ならとりとめのない言葉を読んでも「これは何が言いたいんだろう?」と戸惑ってしまう人が多いと思うのですが、歌詞の場合、行間にはメロディがあり、そして言葉は、歌うその人の声によってひとつのものにまとめあげられていて、だからとりとめもなさがあったとしても、自然なものとして受け止めることができるんです。そうやって受け入れられている行間の広さみたいなものが、今まで教科書などで見ていた言葉とは全く違うものに見えて、新鮮でした。

 
––以前にはアイドルグループ“あヴぁんだんど”や”虹のコンキスタドール”の楽曲において作詞をされていましたが、この経験からも何か発見はあったのでしょうか?

最果:アイドルの楽曲の歌詞の場合、受け取る人たちはその子たちが好きで聴きに来ます。だからこそ、言葉が彼女たちの声になる、ということをとても大切なこととして捉えながら書きました。言葉というよりは声を書こう、として言葉に向き合えたのがおもしろかったです。

 
––普段、どのような瞬間に創作のアイデアは浮かぶのでしょうか?

最果:私は実際に書いていないと言葉が出てこないんですよ。詩を書く場合、1行目がポンと思いついて出てきたら、その言葉につられて2行目が出てくる……といった感じです。何かアイデアがあって詩ができるというよりも、言葉そのものが先に出てきて、詩ができるほうが近いですね。

 
––詩を書いている様子をGIFアニメーションにした作品、「詩っぴつ中」は、まさにそのような印象でした。

最果:最初の1行目が出てこないと、何も始まらないんです。それが出てくるまでは時間がかかることもあるんですけれど、そこからはドミノ倒しみたいに言葉がつながっていくような感じでしょうか……。ぽんと出てきた言葉を一番信用しているので、創作の下準備のようなことはほとんどしません。だから自分がどうしてそれを書いたのかとか、わからないことも多いです(笑)


 
––最初の言葉は、どのように出てくるものなのでしょうか?

最果:人が多い、さまざまな音が聞こえる場所のほうが出てくるので、カフェに行くこともあります。静かな場所では変に緊張してしまうので。

 
––カフェでは、意図せずとも周りの会話が聞こえてきますが、そこから創作のヒントを得ることもあるのでしょうか?

最果:というよりも、外部からの音が大きく複雑になっていくと、あまりにもうるさいので、自分の中で渦巻いていたいろんな思考が打ち消されて、無になれるんです。「集中しよう!」と思って原稿に向かっても、「集中しなきゃ!」と思ってしまって集中できないのですが、うるさいところにいるとそういう不要な思考回路が消されていくので、頭の中がクリアになり、書きたいものだけがポンと浮かぶような気がしています。

 
––何かの音で、核となる部分だけがくっきりと残るんですね。

最果:渋谷なんかに行くと、人や情報の圧が凄いので、すっと書けます。渋谷だけでなく、東京はどこでもだいたいうるさいんですけれど(笑)

 

理想としている詩は、読む人が好きに解釈できるもの。

 
––創作時に心がけていることなどはありますか?

最果:私は書くことに関して、あまり決まりごとを作らないようにしています。設計図とか、そういうものを決めてしまうと、窮屈になってしまって、言葉を先行させて書くことができなくなってしまう。それは単純に楽しくないですし、詩を書く意味もなくなってしまうように思います。むしろ詩は、そういったところから解放されている言葉なんです。

 
––決まりごとによって、言葉が枠にとらわれてしまうと。

最果:言葉って、情報や物語を伝えるために使われることが多いのですが、でもそれだけじゃないと思うんです。もっと自由に、感覚的に使ったっていいはずで、私にとって詩はそうした自由があるものだと思っています。だから、何を書くか、とかそうしたことを先に決めてしまうことは、ちょっと違うかな、と思っています。

 
––また、最果さんの詩は、同じ一人称でも「私」、「わたし」と異なっていますよね。こちらはどうして分けられているのでしょうか?

最果:大きな理由としては、リズムです。漢字と平仮名において、平仮名は文字数が多いぶん、スピードは遅くなる。これは文字を追うスピードというよりは、意味を追う、消化していくスピードといった、感覚の問題なんですけれど。
「私」の漢字は見慣れているのでそれだけ見ても意味がわかりますが、平仮名は文字だけでは意味が砕けているので、自分の中で一度消化しなければいけない。視覚的なところを感覚的に、すっきりする形にするというか。意図的に考えてそうしているというよりは、なんとなくその場の直感で決めていっているのですが、後から作品を読むとそういうふうに判断しているのかな、と思います。

 
––最果さんは小説と詩、それぞれ書かれていますが、創作される過程で違いなどはあるのですか?

最果:詩は、読む人が好きに解釈できるものを理想として書いています。小説でも、詩の言葉を書くことは多くあるのですが、あまりにも解釈に自由度を持たせると、そのあとの展開に読者がついていけなくなってしまうので、「ここは詩の言葉多め」「ここは少なめ」とかメリハリをつけるようにしています。詩は逆にそうしたことを一切考えないで書ききることを大切にしています。何も考えないというのも、それはそれで大変で……。次の行を書こうとして言葉に詰まった時とか、「じゃあここをつなげたらどうだろう」なんてすぐ考えてしまうので。そういうのは絶対に避けたいなあと思っています。

 
––『星が獣になる季節』という小説は横書き、詩は縦書きのものと横書きのものとありますね。こちらも何か創作時に違いはあるのでしょうか?

最果:『星が獣になる季節』は、私の横書きの詩を気に入ってくださった編集者の方から「この文体で、小説を書いてみませんか」と提案をいただいて、横書きなら手紙文体だろう、と思ったのでこういった小説になりました。
横書きの詩はネットに書いていたものがほとんどかな、と思います。横書きと縦書きは、言葉の見え方がかなり違っていて、横書きは目を動かしながら文章をたどって読んでいくのが普通ですが、横書きだとある程度の長さであれば、一行の最初から最後までを一目で見ることができる気がします。縦書きと違って、一行を一つの塊としてパッと認識できるはずなので、「一瞬が勝負」みたいな言葉は横書きに多く登場します。
あと、ポスターとか、横書きの言葉は街中にもたくさんあって、みんな「不意に言葉が目に飛び込んでくる」というのに慣れているんですよね。縦書きは「本を読むぞ」「文章を読むぞ」という気持ちで向き合うような言葉ですが……。私は詩との出会いは不意打ちであればあるほどいいと思っていて。

 
––横書きのものと縦書きのもの、それぞれの見え方を大切にされているのですね。

最果:縦書きは「本っぽさ」が強いので、「これから詩を読むぞ」と意識されながら読まれることも多いのかなと思います。一方で、横書きの言葉は看板とかポスターとか、街中にもたくさんあって、みんな「不意に言葉が目に飛び込んでくる」というのに慣れているのかもしれません。
詩との出会いは、不意打ちであればあるほどいいと思っています。ふと見たポスターに詩がポンと書いてあった、とかそういう出会い方が理想です。「読むぞ」と思わずにフラットな状態で言葉に触れてもらった方が、詩がしみ込んでいくのではないかと思っています。

 

最果タヒ氏が「10代」と「東京」を描く理由。

––雑誌「きらら」で新しく連載されている『恋の収穫期』では、東京からやってきた転校生の早見くんを「未来人」と表現したり、主人公の友人、ひかりが東京への憧れから早見くんに告白するシーンが印象的でした。このほかにも作品に「東京」を出される理由はありますか?

最果:詩に登場させる「東京」と『恋の収穫期』における「東京」は少し違うかもしれません。詩の場合は、読んでいる人みんなが知っているというのが、「東京」を登場させる大きな理由です。暮らしている場所や行ったことがある場所は人によってバラバラですが、それでも東京だけはみんななんとなく知っている。ニュースに東京は日常的に出てくるし、地方でも東京のお天気を知ることがある。多くの人は「東京」に対してなんらかの意識を向けているはずなので、詩にも登場させています。私は「この詩には自分のことが書かれている」と思われることが一つの理想なので、ぴんとこない地名を詩に登場させて、「これは自分と関係ない話だな」と思われてしまうのは避けたいと思っています。

 

今日は未来人が転校してくるらしい。未来人。ただの東京からやってくる同い年のことを指している。東京。そこは地方でしかない軽井沢から見れば未来と変わらない、っていう最近流行りの卑屈めいた理屈だった。

「恋の収穫期」より

 
『恋の収穫期』はもともと「ポケモンGO」が流行っていた時期に考えていた作品です。「ポケモンGO」って、地域によってすごく格差がありますよね。「これがもっと別の技術だったらどうなるんだろう」と思ったんです。今はポケモンがたくさんいるのが東京で、ポケモンがあまりいないのが地方みたいな感じですが、このままどんどんずれていったら、それぞれまったく別の街になるんじゃないかと。そこに興味があって書き始めました。

 
––まさか『恋の収穫期』が生まれたきっかけが、「ポケモンGO」だったとは!(笑)では、続いて描かれているキャラクターについてですが、『かわいいだけじゃない私たちの、かわいいだけの平凡。』には魔法少女やアンドロイド、『渦森今日子は宇宙に期待しない。』には宇宙人が登場しています。こういったユニークなキャラクターはどのように生み出しているのでしょうか?

最果:あまりユニークだとは思っていないです。生まれた時からアニメや漫画がたくさんあって、宇宙人も魔法使いもロボットも、そうした世界には頻出する存在です。現実にいるわけではないけど、でも、みんなよく知っている存在で、世の中に馴染んでさえいると思っています。だから、そうしたキャラクターを登場させることが特殊なことだとはあまり思っていなくて……。『渦森今日子は宇宙に期待しない。』は宇宙人の女の子の一人語りが書きたくて書き始めた小説なので、最初から宇宙人であることは決まっていました。

 

簡単に言えばここは宇宙探偵部で、ついでにいうと私は宇宙人です。OK? 宇宙人は妄想とかじゃなくて本当に宇宙からきた異星人なので、「え、まじで?」とか言われてもこっちだって困るの

『渦森今日子は宇宙に期待しない』より

 
––最果さんは『星が獣になる季節』や『十代に共感する奴はみんな嘘つき』などで、10代という多感な思春期をよく描いていますよね。この年代を描こうと思われた理由はありますか?

最果:10代は自分を客観視することがまだ完全にはできなくて、それでいて主観だけで好きに行動するだけでは満足できなくなっている時期です。自分が何を言いたいかわからない、自分の言葉が上滑りして、自分自身から離れていくような、そんな危機感に焦る感覚は、とても詩に近いように思います。

 
––最果さんの描く小説のキャラクターはどれも生き生きとしていますが、何かしらの形で実体験が影響しているのですか?

最果:フィクションだからこそ、楽しく書けるように思います。私自身は10代のときにあまり悩んだりしていなくて、周囲のそういう人たちを「すごくいいな」と思っていました。

 
––それはなぜですか?

最果:悩んだり苦しんだりしている本人からしてみれば辛いだろうけれど、私にはそんな人たちがすごく綺麗に見えていました。生きているかんじがして、憧れていたんだと思います。

 
––『恋の収穫期』、『十代に共感する奴はみんな嘘つき』では告白する場面が登場しますが、女子高生の日常がありありと描かれていて非常にリアルでした。

最果:小説では「この人物とこの人物がそんな状況に陥ったら、一体どうなるんだろう」と知りたくて書くことが多いです。『十代に共感する奴はみんな嘘つき』は冒頭の二行を書いていたら「小説のモノローグだな」と思いました。そこから「こんな言葉を話すのは、どんな女の子なんだろう」と考えて進めてきました。

 

感情はサブカル。現象はエンタメ。
つまり、愛はサブカルで、セックスはエンタメ。

『十代に共感する奴はみんな嘘つき』より

 
『恋の収穫期』も当初考えていた設定を一度寝かせてから、冒頭の「産毛を切ったエピソード」を一気に書きました。それが主人公の女の子の造形になりました。「この子を何百枚もかけて書きたい」というきっかけは、ほとんどが言葉です。

 
––また、インターネットでは詩の言葉を利用したブラウザゲームの「詩ューティング」や詩をつけまつげにした「詩線」といった作品を発表されていますね。

最果:「おもしろそうだから作ってみよう!」という軽い気持ちで作っています。インターネットがあるおかげで、思いついたらすぐに作って、すぐに発表できるのでとても楽しいです。


 
(次ページ:最果タヒ氏が感じた、「沈黙よりも饒舌に近い現代の生きづらさ」とは)

連載対談 中島京子の「扉をあけたら」 ゲスト:太田啓子(弁護士) 武田由起子(弁護士)
月刊 本の窓 スポーツエッセイ アスリートの新しいカタチ 第1回 田澤純一