コロナ禍を経た2021年。いま読むべきディストピア小説3選
分断と監視社会が加速している現代。いまだからこそ、“ディストピア”を描いた小説作品を読みたいと感じる方も多いのではないでしょうか。今回は『透明性』(マルク・デュガン)を始めとする、2020年前後に発表された現代ディストピア小説をご紹介します。
新型コロナウイルスの流行やトランプ政権の終焉など、歴史的なトピックが多発した2020年。感染拡大の予防や暴動を未然に防ぐといった目的のもとで、社会の分断と監視が加速しているのを実感する方も多いのではないでしょうか。かつてジョージ・オーウェルが『1984年』のなかで描いたディストピア的な世界観が、すぐそこに迫っているのを感じている方もいるかもしれません。
今回は、2020年前後に発表された現代小説の中から、“2021年にこそ読みたい”最新のディストピア小説を3作品ご紹介します。
(あわせて読みたい:【ディストピアとは?】「監視社会」や「行動の制限」などの“あるある”から徹底解説。)
『透明性』(マルク・デュガン)
出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4152099739/
『透明性』は、『将校たちの部屋』などのベストセラーを持つフランス人作家のマルク・デュガンが2019年に発表した長編小説です。
舞台は2068年。グーグル社が個人データを完全に可視化させ、覇権を握っている近未来です。個人データの提供には見返りとして報酬やさまざまな利益が受け取れるため、このシステムを批判する人々はほとんどいませんでした。
データを提供する者たちは、恒常的に監視されていると、自分についての知識があらゆる面で、なかでも医学的な面で、ぐんと広がるということにすぐに気がついた。どんな食物を摂取しても、その食物に対するメタボリズムの反応の情報が作られ、階段を上れば必ず、脈への影響や、肺胞がどのくらい開くか、肝臓がどのくらい糖分をグリコーゲンに変えるかが計算される。
常時監視の対象になると、見返りに報酬が受けられたし、それ以外にも医療リスクを防ぐなど多くの利点があり、とりわけ自分の情報に常にアクセスできることで、保険料をかなり低く抑えられたのである。情報が透明(トランスパラン)な人間は、快適な生活を送るのに最低限必要な額を考慮した最低収入を受けていたし、人は直接には何も支払いたがらず、この所謂“無償”のためには喜んで全てを犠牲にしたので、多くのサービスが見かけ上、どんどん無償化されたことは言うまでもない。
この時代には、トランプ政権を発端とする環境保全に目を向けようとしない自国第一主義により、地球温暖化が進み、人類の生存可能地域は北欧のみに限られていました。アイスランドで暮らす起業家の主人公は、個人データを人工的な体に移植することで不老不死の人間を作り上げる、“エンドレス・プログラム”の準備を密かに進めていました。彼女はグーグルを買収することに成功し、グーグルが収集してきた膨大な個人データを活用してこのプログラムを実行に移そうとします。彼女は、グーグルが人間から尊厳とプライバシーを奪って監視社会を加速させ、暗に世界を操っていることを批判し、“エンドレス・プログラム”は人間の「魂」を完全保存するものだと考えているのです。
“絹のように柔らかい蜘蛛の糸”が張り巡らされた社会のもとで、巨大企業に個人情報を受け渡す代わりに得られる“自由”を謳歌している人類。本書が指摘する社会の問題点は現代にも重なる部分があまりに多く、近未来のディストピアを描いたフィクションだ──と簡単に割り切ることを許しません。自国第一主義と資本主義への警告を非常にアイロニカルに描く、読者をぞっとさせるような1冊です。
『日没』(桐野夏生)
出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4000614401/
『日没』は、『OUT』などの代表作を持つ小説家・桐野夏生が2020年に発表した長編小説です。
主人公は、マッツ夢井というペンネームで活動する小説家。彼女の作風はいわゆるエンタメ小説のなかでも、エロ・グロの描写が多い、過激とされるものでした。ある日彼女のもとに、「総務省文化局・文化文芸倫理向上委員会」を名乗る団体から“召喚状”が届きます。
召喚状 B98号
マッツ夢井(松重カンナ)殿
総務省文化局・文化文芸倫理向上委員会では、貴殿に対する読者からの提訴に関する審議を行い、事情を聴取すべく、貴殿に、審議会への出席を乞う旨の願い書を、三月一日付で送付致しました。しかし、返答のないまま、指定した期間が過ぎましたので、貴殿には、下記期日に、下記場所への出頭を要請します。
出頭日として指定されている日付は翌々日で、出頭場所は千葉県の海辺の街でした。知人の編集者から「このところ小説家の不審死が相次いでいる」と不穏な話を聞いたマッツは、召喚状に素直に従い、指定の場所に出頭します。すると、そこに待っていたのは文化文芸倫理向上委員会の職員を名乗る男でした。あなたの書く小説は社会に悪影響を及ぼしていると告げられたマッツは、岸壁の上に立つ“療養所”に強制的に入れられてしまいます。
療養所の所長は、マッツの小説のエロティックな描写はまるで“レイプが正しい行為”であるかのように書かれている、と指摘します。しかし彼女は、
「冗談じゃない。小説は、正しい、正しくない、じゃないんです。出来事をそのまま書くだけで、その出来事を審判するものではない。だって、真実は、あなたの言う正しさとは違うところにあるんですよ。それは読者にも伝わるはずです。どうして、あなたがたは最近のハリウッド映画みたいな、コンプラまみれの、真っ当なことを言うんですか。どうしてそんな」
と反論します。
刑務所のように質素な療養所では、外部との通信が一切遮断されていました。そこに入れられた小説家に残されている道は、倫理的に正しいとされる作品だけを書く作家に“転向”して退所のときを待つか、尊厳が徹底的に奪われた軟禁状態を受け入れるかのふたつだけでした。マッツは果敢にも反抗を続け、療養所から出られる道を探ろうとします。
本書で描かれる表現者への言論弾圧は戯画的でありながらも、政権批判をする表現者が公の場から退任を求められてしまう現代のムードや、表現規制を求めるSNS上の行き過ぎた動きなどには大いに重なる部分が見られます。本書の衝撃的な結末を、表現者にとってのある種の“救い”と捉える方も少なくないかもしれません。
『フライデー・ブラック』(ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー)
出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4909646272/
『フライデー・ブラック』は、アメリカ出身の作家、ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤーが2018年、弱冠28歳で発表したデビュー短篇集です。
表題作の『フライデー・ブラック』は、アメリカで毎年秋におこなわれる大規模な安売りセール「ブラック・フライデー」をテーマにしたもの。本作の主人公は、ブラック・フライデーの安売りを実施している小売店の地域統括マネージャーです。
俺にとって、これが四度目のブラック・フライデー。最初のブラック・フライデーでは、コネチカット州からやってきた男が、俺の上腕三頭筋を噛みちぎった。そいつの唾液は熱かった。俺は売り場を十分だけ離れて、傷口の手当てをした。こうして俺の左腕には、いまでもギザギザのニコニコ・マークが残っている。鎌形で半円形。ブラック・フライデーで負った幸運の傷だ。
本作は、安売りに飛びつく人々の様子を極度にシニカルかつ、どこかユーモラスにも描きます。
「ブルー! 息子! スリークバック!」
ダウン・ヴェストを着た男が、俺の左足首を掴みながら、狂気じみた目で叫んだ。口からは、白い泡が滴っている。俺は右足で男の手を踏みつけた。俺の指が、俺のブーツの下で押し潰される感触がする。男は踏まれてけがした手を舐めながら、「スリークバック! 息子!」と唸り声を上げている。俺は彼の目を見つめた。目の縁は赤く染まっている。特に、目頭と目尻は真っ赤だ。彼の言葉なら、完璧に理解できた。彼はこう言っていた。
「俺の息子。俺のことをクリスマスに一番愛してくれる。ホリデー・シーズンは一緒にいられるんだ。俺と息子。欲しいものは一つ。たった一つ。息子の母親は買わない。俺が買わなければ。父親らしいことがしたいんだ!」
買うべきものを手に入れようと熱狂する人々によって、売り場は戦場のような様相を呈しています。ブラック・フライデーによって店員や客が怪我をするのは日常茶飯事で、ときには死者が出ることさえもあるのです。
主人公は小売業界で生き残り、自分や家族のために良質なものを買って暮らすことに必死で、ブラック・フライデーの狂乱の構造的な問題に目を向けようとは決してしません。暴力的とも言える資本主義の力に取り込まれ、そこに過剰適応しようとしてしまう人の姿を、本作は実に巧みに描いています。
表題作のほかにも、黒人差別の問題を真っ向から描く『フィンケルスティーン5』、遺伝子操作により、優れている人間だけを選んで産み分けできるようになった近未来を舞台にした『旧時代(ジ・エラ)』など、本書には広く差別や家族の問題を扱ったディストピア小説が多数収録されています。現代の社会問題を考える上で、必読とも言える1冊です。
おわりに
監視社会や表現規制を戯画的に描くディストピア小説。2021年のいま、ディストピアを舞台にした作品を読むと、その世界がもはや遠く離れたフィクションではなく、すぐそこに迫っているという危機感に襲われる方も多いことでしょう。そう思わされるほどに、コロナ禍を経験した現代社会は混乱と先の見えない恐怖に充ち満ちています。
しかしだからこそ、フィクションを読むことで本当にやってくるかもしれない未来を疑似体験し、思考を止めないことがなにより大事なのかもしれません。今回ご紹介した3作品はどれも違った形で、私たちが厳しい現代社会をどう生き抜くかのヒントを与えてくれるはずです。
初出:P+D MAGAZINE(2021/02/18)