最近よく聞く“シェアリング”の問題とは?/市民セクター政策機構『社会運動 0円生活を楽しむ シェアする社会』
人々が、モノを共有して、助け合う……。最近よく耳にするようになった“シェアリング”という言葉は、政府周辺のビジネスに敏感な人と左派の間で、奇妙な共有のキーワードになっていると大塚英志氏は言います。
【ポスト・ブック・レビュー この人に訊け!】
大塚英志【まんが原作者】
社会運動 0円生活を楽しむ シェアする社会
市民セクター政策機構
ほんの木 1000円+税
AD/後藤裕彦(ビーハウス)
隣保共助は福祉や弱者救済からの政治の逃亡の言い訳
シェアリング、ということばをこの頃、よく聞く。
去年、リベラルな新聞社からそのテーマで取材依頼を受けて会ってみたら、どうやらモノに憑かれた旧「おたく」の象徴としてのオマエに、物欲から解放された新思想に対して反省の弁を述べよという主旨が見え見えだった。嫌なこったと、戦争中、その新聞が、家事や育児や調理器具などを隣組で共有しようという大政翼賛会のプロパガンダに乗った記事を書きまくったことを、その場で新聞社のデータベースに入り込んで実物を見てもらったが、あなたはシェアを否定するのかとかえってくってかかられた。
そして記事になると、シェアビジネスの推進者と政府の民間委員っぽいことをやっている人のシェア礼賛のコメントの隣で、それを否定するぼくだけが浮いていた。
このシェア、という問題、このところ、政府周辺のビジネスに敏感な人々と左派の間の奇妙な共有のキーワードになっている。翼賛体制の時は、それは「協同主義」と言って、元左翼で翼賛会に流れ込んだ人たちが持ち込んだ思想だった。と、そう言うと多分もっと嫌な顔をされたんだろうが、リベラルな市民運動の機関紙で「シェアする社会」の特集を見るとやはり気になる。
隣保共助は、福祉や弱者救済からの政治の逃亡の言い訳なのになあ、今も昔も、とぼくは思う。ぼくにはシェア社会の礼賛は、要は自分らで解決しろという、一つ間違うとマイルドな自己責任論のような気がする。今、子育てや弱者救済に回すお金がないのは、オリンピックやイージス・アショアに無駄金使ってるからだろうと、正しい税の分配を主張すべきなのが左派の立ち位置ではないのか。
シェア社会を「運動化」するなら、そういう近隣のコミュニティが、一瞬でファシズムの下部構造に変わった歴史を踏まえておかないと、とぼくは思うけど、こういうことを言うから右からも左からも嫌われるんだろうな。
(週刊ポスト 2019年3.8号より)
初出:P+D MAGAZINE(2019/08/07)