流 智美『東京12チャンネル時代の国際プロレス』/熱狂的なファンを生み出したプロレスは、なぜ団体崩壊を迎えたのか

日本でプロレスの人気が一番高かったのは、1969年(昭和44年)。しかし黄金時代を経て、国際プロレスの放映権はTBSから東京12チャンネルへと移り変わり……。リング内外の実情を明らかにする一冊!

【ポスト・ブック・レビュー この人に訊け!】
坪内祐三【評論家】

東京12チャンネル時代の国際プロレス

流 智美著
辰巳出版
2000円+税
装丁/柿沼みさと

TBSから放映権が移った「後」の内実を俯瞰した一冊

 プロレスブームと言われている今、私はプロレスにまったく興味ないが、かつては熱狂的なプロレスファンだった。その私が一番信頼しているプロレスライターが本書の著者、流智美だ。流氏は一九五七年十一月生まれ、私は一九五八年五月生まれ、ほぼ同世代だ。
 だから、「あとがき」の、日本で「プロレス人気が一番高かった」のは「1969年、昭和44年です」という言葉にまったく共感する。その年、週に八つもプロレス番組が放映され、私がプロレス会場に足を運ぶようになったのもその年の夏のことだ(初めて見に行ったのは東京体育館で行なわれたインターナショナル・タッグ選手権)。
 当時はまだジャイアント馬場とアントニオ猪木は別れておらず、つまり日本プロレスの黄金時代だが、国際プロレスという独特の味わいを持つ団体もあった。
 国際プロレスは別名TBSプロレスとも呼ばれ、一九七四年三月までTBSが放映していたが、同年六月から東京12チャンネルが放映するようになった。
 それはちょうど私が中学生から高校生に変わる頃で、プロレス離れが進んでいたから、国際プロレス、個々のエピソードはおさえていたけれどテレビを見ることはあまりなかった(一番熱心に見たのはアントニオ猪木の新日本プロレス)。
 だから、これはとてもありがたい本だ。
 カードを決めていたのはグレート草津で、エースを期待されるなかデビュー直後のルー・テーズ戦でバックドロップで失神させられた彼は練習嫌いで酒癖が悪かった。エースだったストロング小林が国プロをやめたのも彼のせいだ(草津に何度もしょんべんを飲まされそうになった)。小林に続くエース、マイティ井上は流氏の、「ウォーミングアップもしないんですか?」という質問に、「考えられないでしょ? でも、実際そうでしたよ」と答えている。
 倒産する二か月前、一九八一年六月の後楽園ホールは三百人しか集まらなかったという(見に行けば良かった)。

(週刊ポスト 2019年10.11号より)

初出:P+D MAGAZINE(2020/04/11)

ラブコメだけじゃない! 有川ひろの泣ける感動小説3選
ピョン・ヘヨン 著、姜 信子 訳『モンスーン』/実は誰もが知っている「恐怖」の地獄を描く