【著者インタビュー】中村光博『「駅の子」の闘い 戦争孤児たちの埋もれてきた戦後史』/駅に住み着いた子どもたちの壮絶な証言集

かつて全国に12万人もいたという戦争孤児。路上生活を強いられ、駅に住み着いた子どもたちの闘いの日々が綴られた本書は、戦争の残酷さを改めて炙り出します。

【ポスト・ブック・レビュー 著者に訊け!】

10歳前後で孤児となり親戚からも見放された「彼ら」は戦後も長く苦しみ続けた――戦争の真の酷さを炙り出す証言集

『「駅の子」の闘い 戦争孤児たちの埋もれてきた戦後史』

幻冬舎新書 880円+税
装丁/鈴木成一デザイン室

中村光博

●なかむら・みつひろ 1984年東京生まれ。東京大学公共政策大学院修了後、NHK入局。大阪放送局報道部、国際番組部等を経て、現在社会番組部ディレクターとして『クローズアップ現代+』や『NHKスペシャル』などを制作。『〝駅の子〟の闘い~語り始めた戦争孤児~』で2018年度ギャラクシー賞選奨。他の担当番組にNスペ『都市直下地震 20年目の警告』、BS1スペシャル『激動の世界をゆく 世界は北朝鮮をどう見るか』等。175㌢、67㌔、B型。

絶望を知ってしまった戦争孤児たちと現代の子供が抱える生きづらさは一緒

 18年8月放送のNHKスペシャル『“駅の子”の闘い~語り始めた戦争孤児~』でも、すでに80歳を超えた取材対象の話に真摯に耳を傾ける、若いディレクターの背中が印象的だった。
「私自身は親も60代ですし、戦争の話は祖父から少し聞く程度でした」
 だがNHK大阪在籍中の15年、中村光博氏は戦争で親を失い、駅に住み着いた通称「駅の子」の存在を知り、〈70年も前の戦争〉が〈たった70年前に〉、一気に近づく感覚を覚えたという。
 例えば空襲で家を失い、日に日に弱っていく母親を三宮駅構内で看取った、内藤博一さん
(85歳。以下、年齢は放送時のもの)は言う。〈あそこだけは、いまでも足が向きませんし、私はいまだにこの戦争が終わった、平和やなという気持ちは持ってません〉と。

 戦死や戦災で親を亡くし、全国に12万人いたともいう戦争孤児。実はその保護に今の児童養護施設のルーツがあったことなど、自身、発見の多い取材だったとか。
「駅の子という言葉を知ったのは、ある勉強会で立命館宇治中学・高校の本庄豊先生のお話を聞いたのがきっかけでした。戦争孤児を授業でも取り上げている先生によれば、空襲を免れた京都駅に住み着いた孤児の存在は生徒の関心も高いそうです。今まで戦争孤児に関しては上野方面に証言が偏る傾向があったんですが、実際は日本各地に駅の子がいて、もっと多様な戦後史を刻んでいたはずなので、取材を進めました」
 先の内藤氏に始まって、疎開先の山形で空襲に遭い、親戚も頼れずに上京、幼い弟妹と上野の地下道で暮らした過去を夫にすら言えなかったという金子トミさん(88歳)。また学童疎開中に深川の自宅が焼け、両親の迎えを疎開先で待ち続けた麻布自動車創業者・渡辺喜太郎氏(84歳)や、引揚中に母を失い、実名すら知らずに生きてきた瀬川陽子さん。〈靖国の遺児〉から一転、原爆に何もかもを奪われた面家敏之さん(86歳)など、中村氏に思いを託すように重い口を開いた元孤児たちの言葉は、国の復興とは逆行するように孤立を深めた人のものだけに切ない。
 例えば女手一つで育ててくれた母親を空襲で亡くし、親戚の家を出て駅を転々とする中、視力や親友や多くのものを失った小倉勇さん(86歳)は言う。〈なんでお前は生まれてきたんだ、なんでわしらがお前を見なきゃならんのやと、しょっちゅう言われて〉〈もちろん食べ物には飢えていた、着るものもなくて毎日寒かった。だけど本当にほしかったのはぬくもりなんですよ〉

路上生活も自己責任、、、、にする時代

「実は私が今回、皆さんにしつこいくらい訊いたのが、駅の子や戦争孤児の多くがなぜ親戚の家や施設を逃げ出してしまうのか、でした。それこそ『火垂るの墓』の兄・清太も、とりあえず雨露は凌げて食事も多少もらえる叔母の家を出て、幼い妹と路上生活を始める。それを『なぜ?』と思うこと自体、何でも〈自己責任論〉にしたがる昨今の風潮に毒されていたのかもしれません。それが小倉さんたちと話すことで、彼らが何に傷つき、何と闘っていたのか、理解できるようになった。
 施設もそうです。そこが本当に安心できる場所なら、駅で強制捕獲された子たちも逃げたりはしない。ところが中には彼らを檻に閉じ込めてまともな食事も与えない施設もあったらしい。何ら子供のためにならない政策なのに、行政は『対策しています』といい、子供に不信感や溝を生む罪深さは、今も何一つ変わっていないのかもしれません」
 やっと手に入れた1本の芋を、それすら食べられずに死んでいった子供の隣で弟妹と分け合った金子さんの〈自分を守るのに精一杯で、あげたい気持ちはあるんですけど、あげられないんですよ〉という言葉や、仲間の山ちゃんやカメちゃんと3人、生きるためには盗みもしたという小倉さんの〈生きられない人はみな死んでいった〉という言葉。2年にわたる路上生活の中で野良犬同然に扱われ、学校に通ったら通ったで教師に壮絶なイジメを受けたという山田清一郎さん(83歳)の〈日本人というか、人間は、案外そういう冷たさを持っているんじゃないかと思うけどね〉という言葉など、彼らが10代そこそこで絶望を知ってしまったこと自体、戦争最大の罪といえよう。
「例えば小倉さんが視力を失った時、夜通し背中をさすってくれたカメちゃんが自殺したのは、日本が豊かになりつつある中でのこと。〈なんで僕だけが〉という孤独感が一番人を追いこむんだと涙を流す小倉さんや、苦学の末に教師になられた山田さんが常に気にかけていたのが現代の子供たちのことでした。
 今はいじめや虐待に問題が変わっただけで、生きづらさは一緒だと、不幸な事件がある度に最も心を痛めているのは孤児の方々のようにも感じます」
 そんな彼らが口を開いてくれたのは、〈時代の空気の大きな変化〉もあったと、中村氏は言う。
「駅の浮浪児や傷痍軍人といった今まで何となく継承されてきた記憶が途絶え、今後は自分たちの存在自体、ないことにされていくのではないかという焦りや怒りがあるようでした。まして今は孤児の苦しみさえ自己責任論で語る時代ですし、だから今まで言えずに来たことも含めて託してくれたのだと思います」
 彼ら孤児につらくあたり、絶望させた大人もまた生きるのに精一杯だったのかもしれず、そこまで人を追い込んでしまう戦争に改めて恐怖と怒りを抱かせる労作だ。

●構成/橋本紀子
●撮影/国府田利光

(週刊ポスト 2020年3.20号より)

初出:P+D MAGAZINE(2020/07/30)

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