小谷野 敦『歌舞伎に女優がいた時代』/これまでの歌舞伎観を一新する、通好みの読み物
歌舞伎の舞台に上がるのは男性だけ、というしきたりがありますが、それは昭和に入ってからの話。かつては女性も舞台に立っており、その育成をあとおししようという動きさえあったのです。
【ポスト・ブック・レビュー この人に訊け!】
井上章一【国際日本文化研究センター教授】
歌舞伎に女優がいた時代
小谷野 敦 著
中公新書ラクレ
880円+税
男しか演じないという「しきたり」は昭和に入って
かつて、歌舞伎の舞台には、女たちもあがっていた。そう聞かされて、江戸初期の出雲阿国を想いうかべる人は、少なくあるまい。
彼女がはじめた女の歌舞伎は、いわゆる遊女歌舞伎を誘発する。しかし、それらは風儀をみだすと、幕府から禁止された。男だけが演じ手となる今日の歌舞伎は、そんな統制のせいで成立する。以上のように歴史の流れをとらえている人も、おおぜいいるだろう。
しかし、出雲阿国の芸能が、のちの歌舞伎とつながるかどうかは、うたがわしい。あれは、女たちがになってきた中世芸能史の延長上に、浮上した。江戸歌舞伎の前身とは言いがたいところもある。
また、江戸時代にも、女だけで演じられた芝居はあった。しかも、彼女らは江戸城の大奥や大名家の奥に、しばしばまねきいれられている。好き心がこうじて、女優の劇団までこしらえた大名さえ、いなかったわけではない。
明治期の九代目市川團十郎は、二人の娘を舞台にあげていた。のみならず、長女には十代目をつがせようとさえしている。また、團十郎は女役者九女八を、高く買っていた。彼女が市川
六代目の尾上菊五郎も、ひとりの女弟子に目をかけた。尾上菊枝として、彼女を
この本が紹介する江戸から昭和戦前期までの舞台史は、通好みでありすぎる。私にはついていけないところもあるが、歌舞伎好きにはたまらない読み物であろう。ただ、男しか演じないというしきたりが、ようやく昭和に入って確立したことは、私でものみこめた。歌舞伎観を一新する本である。
いや、歌舞伎だけにかぎったことではない。伝統的とみなされる他のことどもにも、歴史的な底があさいものは、けっこうある。用心したいものである。
(週刊ポスト 2020年4.17号より)
初出:P+D MAGAZINE(2020/08/18)