【『シンジケート』新装版発売】現代短歌の旗手・穂村弘の歌の魅力

人気歌人・穂村弘の歌集『シンジケート』の新装版が発売されました。本書は1990年に発表された穂村のデビュー歌集で、いまなお多くの読者から愛され続けています。今回は、現代短歌を牽引してきた穂村弘の歌の魅力を、これまでの4冊の歌集を鑑賞しつつ紹介します。

2021年5月、歌人・穂村弘の歌集『シンジケート』の新装版が発売されました。人気画家のヒグチユウコによる絵とグラフィックデザイナーの名久井直子による装丁で新たに生まれ変わった本作は、1990年に発表された穂村弘のデビュー歌集です。

販売部数がごく少数であることも多い歌集の世界。近年では過去に刊行され埋もれてしまっている“隠れた名作”を新装版として発表し、あらためて光を当てる試みもすこしずつ増えつつありますが、現役の人気歌人の歌集が新装版として発売されるのはやはり珍しいケースです。穂村弘はエッセイや短歌批評の名手としても知られており、その根強い人気の理由には、元来“わからないもの”とされがちだった短歌の世界の裾野を広げ、新たな読者層を呼び込んだ功績もあるでしょう。歌人と批評家のふたつの顔を持つ穂村は現代短歌の旗手として、広い世代からの注目を集め続けています。

今回は31年ぶりに生まれ変わったデビュー歌集『シンジケート』から最新歌集『水中翼船炎上中』までの穂村の歌を鑑賞しつつ、その魅力を紹介していきます。

(合わせて読みたい:子どもの頃に憧れた未来は、すべて反転してしまった──穂村弘『水中翼船炎上中』インタビュー

第1歌集『シンジケート』


出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4065232120/

終バスにふたりは眠る紫の〈降りますランプ〉に取り囲まれて

体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ

「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」

手はつながずにみるはるのゆきのなか今日で最後のアシカの芸を

サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい

呼吸する色の不思議を見ていたら「火よ」と貴方は教えてくれる

穂村弘が短歌を作りはじめたのは、大学時代、同世代の歌人・林あまりの口語短歌に出会い、“なにもかも派手な祭りの夜のゆめ火でも見てなよ さよなら、あんた”といった歌の新しさやインパクトに惹かれたからだったと言います。穂村はその翌年、1986年の角川短歌賞(短歌の新人賞)に「シンジケート」と題した50首で応募し、見事次席入賞。歌壇から注目を浴びるものの、同じ年の大賞受賞者が俵万智であったことからその存在感はやや陰に隠れてしまいます。穂村はシステムエンジニアとして会社に就職後、4年の時を経て、1990年に第1歌集『シンジケート』を上梓します。

『シンジケート』は青春歌集である、と穂村本人も言い切っているとおり、本書は甘い空気に満ちた相聞歌(恋の歌)を中心とする歌集です。“降りますランプ”という共感性の高い造語が光る1首目や恋人同士の休日を想起させる2首目・3首目からは、親しさゆえに“雪のことかよ”と言い捨ててみたり、酔ってふざけてみたりする、甘噛みをし合う動物のような関係性のふたりが見えてきます。

4首目の“呼吸する色の不思議を~”という歌は、“呼吸する色”という未知のものに触れた作中主体が、それは“火”である──と女性から名前を教えてもらうという構造です。穂村は初期の自分の歌には、世界を新たに獲得するとき、その窓口は女性であるという女神信仰のようなものがあったとかつて語っています(山田わたる、穂村弘『世界中が夕焼け 穂村弘の短歌の秘密』より)。

“今日で最後のアシカの芸”という不吉な言葉が澱のように耳に残る5首目、“サバンナの象のうんこ”という遥か遠い国のものに切実な叫びを仮託する6首目のような歌からは、それまでの歌の爽やかさとは180度違った不穏さを感じる方も多いのではないでしょうか。しかし振り返ってみれば、5首目、6首目以外の歌からも、いま作中主体たちがどのような時空間にいるのかという具体的な情報は一切伝わってきません。どのような局面にいるのかわからない恋人たちの強烈で美しい“一瞬”だけがさまざまなシチュエーションで何度も繰り返されているかのような、奇妙なループ感は穂村の短歌の最大の特徴でもあります。

僕はできるものなら一生青春をやってきたいという人間で、一生モラトリアムでいたい
『早稲田短歌 32号』インタビューより

と穂村自身も語っているとおり、彼の(特に初期の)短歌には、青春の一回性、一瞬性を賛美しつつ、その“一瞬”をきらきらとしたポップなイメージで延命させようとするかのような作品が多く見られます。穂村と同じ歌人集団「かばん」に属する歌人・中山明は穂村の登場を振り返って、

その作品は、ポップで、アメリカンで、お洒落で、場違いで、それでも不思議な魅力を持っていました。「青春」ぽい、薄っぺらさと同時に、変にリアルな息遣いを感じる「新しい風」のような雰囲気を、この短歌という世界に颯爽ともたらしたのはたしかだったと今にして思うのです。
『穂村弘ワンダーランド』穂村弘と不思議な「かばん」より

とその衝撃を語っています。

第2歌集『ドライ ドライ アイス』


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風の交叉点すれ違うとき心臓に全治二秒の手傷を負えり

眼を閉じて耳をふさいで金星がどれだかわかったら舌で指せ

お遊戯がおぼえられない君のため瞬くだけでいい星の役

星座さえ違う昔に馬小屋で生まれたこどもを信じるなんて

穂村の第2歌集である『ドライ ドライ アイス』は、『シンジケート』刊行から2年後の1992年に発表されました。穂村は本作を“夏休みの自由研究みたいな感じ”で作ったとあとがきで語っていますが、『シンジケート』で感じさせたような奇妙なループ感を伴う“一瞬性”はそのままに、どこか挑戦的な歌が並びます。

1首目を鑑賞してまず目に留まるのは、“風の交叉点”という1句目の大胆な破調です。歌の出だしが“かぜのこうさてん”という8音からはじまることによって、その言葉どおり風が斜めに吹きつける交叉点を早足で歩くときのような疾走感が生まれています。さらに、“全治二秒の手傷”というあまりにキャッチーなフレーズは、日々生まれる生傷を、その痛みを知覚するよりも前に塞がなくてはサバイブしていくことができない都市の暮らしを想起させます。社会批判や文明批判に繋がるテーマにも思えますが、穂村のこの歌では批評性よりもむしろ、“手傷”を負う自分の孤独や、その傷が一瞬のうちに癒えてしまう空虚さにフォーカスされている印象があります。

“全治二秒の手傷”に象徴されるようなキャッチーかつ忘れがたい本書の歌のなかのフレーズを、歌人の山田消児は“既視感”と称しています。山田の言う“既視感”は、オリジナリティが欠如している、凡庸であるといった悪い意味ではなく、実際には見たことがないはずなのに、見たことがあると感じさせるような力のことを指します。

『シンジケート』ではところどころに見られた一定の解釈行為が必要とされる歌、飛躍や断絶を含んだ歌は『ドライ ドライ アイス』ではほとんど影を潜める。その一方で一首一首の持つ物語性は高まり、一読しただけで場面が頭の中に鮮やかに再現されるような既視感全開の歌ばかりが始めから終わりまでずらりと並ぶのである。
『穂村弘ワンダーランド』山田消児「既視感のもつちから」より

そして、この“こしらえ物の情景を一瞬のうちに読者の脳裡に記憶させてしまう彼の手並み”は見事であると山田は言います。

また、2首目から4首目はどれも“星”をモチーフにした短歌であり、“星の役”が登場する“お遊戯”や“馬小屋で生まれたこども”といったフレーズからは、キリスト生誕のイメージが連想されます。しかしそれぞれの歌のなかで、これらのモチーフは信仰対象としてではなく、ある種の“ごっこ遊び”やライトな“冒涜”のためのものとして扱われています。それはおそらく、キリスト教的権威や自己犠牲の精神に対して穂村が抱いている不信感やからかいの気持ちが表出したものなのでしょう。その不信感の根にあるものは、恋や愛とは本質的にエゴイスティックなものであり、根幹には過剰な自意識と自己愛があるという彼のスタンスのように思えます。

第3歌集『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』


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氷からまみは生まれた。先生の星、すごく速く回るのね、大すき。

ハロー 夜。ハロー 静かな霜柱。ハロー カップヌードルの海老たち。

「凍る、燃える、凍る、燃える」と占いの花びら毟る宇宙飛行士

いくたびか生まれ変わってあの夏のウエイトレスとして巡り遭う

夢の中では、光ることと喋ることとはおなじこと。お会いしましょう

1990年代中頃から、穂村弘は絵本の翻訳や短歌批評といった作歌活動以外の仕事を積極的に手がけ、翻訳・批評の分野でも評価されるようになります。そんな穂村による9年ぶりの歌集として2001年に刊行されたのが、この『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』。本書はこれまでの2冊の歌集とは違い、“まみ”というひとりの少女を作中主体とした短歌を中心とする、アクロバティックな歌集となっています。1年半の間に600通近い手紙を送ってきた“手紙魔”まみに触発されて生まれた作品集である──という虚構のような経緯が本書の「あとがき」に収録されていますが、“まみ”に雪舟ゆきふねえまという実在の歌人のイメージモデルが存在したことは事実のようです。

『シンジケート』に収録された“「ゆひら」とさわぐ”の歌のように、穂村の歌のなかには当初から少女言葉の多用というモチーフが見られました。しかし、これまでの歌集では少女と作中主体との対話、あるいは「」つきの少女(他者)の台詞として書かれていた言葉は、本作では主体自身の言葉として溶け込み、モノローグと化しています。

1首目、2首目のような“まみ”のつぶやきととれる歌と、3首目のような穂村を作中主体とする歌はしだいに混ざり合い、やがて穂村が“まみ”の声を獲得して生まれ変わりを果たしたかのように、4首目、5首目のような幻想的な歌へと到達するのです。

穂村は3冊目の歌集にこのような形式を選んだ理由を、

普通なら、自然に作ってきたもので三冊目をまとめるところでしょうね。でも、僕にはそれが躊躇われると言うのか、何かもっと強い初期衝動を持って作りたいという気持ちがあって。ただ、初期衝動は繰り返せないものだから、そのためには一回限りの試みを、そのための契機をどこかで捉えなくてはいけない。雪舟さんの手紙の言語感覚は衝撃的なもので、その短歌化として無意識のコラボレーションみたいなものを、「まみは」とか、もう四十になろうとしている自分がやってみたら、すごく陶酔して
『角川短歌』2019年4月号 インタビューより

とのちに語っています。ふたりの作中主体がしだいに混ざり合っていくというアンバランスな構成でありながら、“「凍る、燃える、凍る、燃える」”の歌に象徴されるように自らの運命や輪廻を宇宙から俯瞰して捉えるような歌も多く見られ、作品世界は深みを増しています。

第4歌集『水中翼船炎上中』


出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4062210568/

雪のような微笑み充ちるちちははと炬燵の上でケーキを切れば

灼けているプールサイドにぴゅるるるるあれは目玉を洗う噴水

真夜中に朱肉さがしておとうさんおかあさんおとうさんおかあさん

髪の毛をととのえながら歩きだす朱肉のような地面の上を

海に投げられた指環を呑み込んだイソギンチャクが愛を覚える

第4歌集である『水中翼船炎上中』は2018年、『手紙魔まみ』以来17年ぶりに刊行された、穂村弘の現時点での最新歌集です。本作には歌集としては珍しく、作品の全体構造を表す見取り図と装丁の背景の説明を兼ねた、“メモ”という紙が挿入されています(これについて穂村は、自分が短歌をはじめたばかりの頃の“読めなさ”を覚えているがゆえに、初読者に親切な構成にしようと入れたものだと過去のインタビューで語っています)。

この見取り図によれば、本作は『出発』と題された現在を表す連作から、『楽しい一日』『にっぽんのクリスマス』『水道水』といった子ども時代を詠んだ連作にシフトし、母の死を経た『火星探検』という連作を経て再び現在に戻ってくる──という時系列的な構成をとっています。1首目、2首目のような“昭和の子ども”のノスタルジーを感じさせるような巧みな歌も数多く見られますが、やはり注目すべきは3首目から5首目、『火星探検』以降の歌でしょう。穂村は母の死というできごとがどのような位相で自らの歌に詠まれるべきか悩み、結果的に母を詠んだ歌だけはリアリズムに近づいてしまったとのちに語っています。

穂村はこの歌集について、「若い人は保守化だと幻滅し、年長者は近代短歌に戻ってきたと歓迎しているがどちらも本質を見ていない」と記した歌人の山田わたるによる解釈を肯定した上で、本作を編んでいくにあたってはかつて、山田からある“暗示”があったのだと言います。

僕はそれをざっくり、「『田園に死す』の時間版はどうか」という暗示として受け取ったのね。『田園に死す』は寺山修司が実際に生まれた場所をドラマ化した、つまり空間のドラマ化だよね。空間的な原点をデフォルメする。『水中翼船炎上中』はその時間版で、寺山にとっては青森だったけど、僕にとっては戦後の昭和で、自らの原点を踏まえてデフォルメするという試み。
『角川短歌』2019年4月号 インタビューより

つまり穂村は本作で、自らがこれまでたどってきた時間にある種の虚構性を噛ませ、デフォルメして詠んでいるのです。本作を締めくくる“海に投げられた指環を呑み込んだイソギンチャクが愛を覚える”の歌は、(過去の自分にとっての未来である)“現在”のユートピア感とディストピア感をどちらも併せ持つ1首だと穂村は評しています。

おわりに

“現代短歌の旗手”として1990年代から注目を浴び続けてきた穂村ですが、意外にも『シンジケート』以降の歌集は短歌賞を受賞しておらず、歌壇の辺境にいる歌人、という見方もされていました。しかし最新歌集の『水中翼船炎上中』が一昨年に第23回若山牧水賞を受賞したことで、穂村は名実ともに現代短歌の中心的存在となったと言えます。

穂村は短歌を評するとき、“共感と驚異(シンパシーとワンダー)”という言葉をしばしば用います。これはあえて簡単な言葉で言い換えるなら、“わかりやすさ”と“わからなさ”。優れた短歌はこの“共感と驚異”のちからを持ち合わせていると穂村は言いますが、彼自身の短歌の一度聞けば忘れないようなポップさや普遍性と、その奥に隠れている難解さやグロテスクさは、まさにこの“共感と驚異”の賜物と呼べます。

これまで穂村の短歌に触れたことがないという方は、今回新装版として発売された『シンジケート』のほか、穂村が自選した短歌の“ベスト版”である歌集『ラインマーカーズ』もおすすめです。ぜひ、自分だけのお気に入りの1首を見つけてみてください。


出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4093874492/

初出:P+D MAGAZINE(2021/06/09)

◎編集者コラム◎ 『囁き男』著/アレックス・ノース 訳/菅原美保
◎編集者コラム◎ 『汚れなき子』著/ロミー・ハウスマン 訳/長田紫乃