今月のイチオシ本【デビュー小説】

『デッドライン』
千葉雅也
新潮社

 著者は1978年生まれの哲学者。博士論文「ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学」を改稿した初の単著『動きすぎてはいけない』が哲学書としては異例のベストセラーになり、ツイートを書籍化した『別のしかたで』や、ユニークな自己啓発書『勉強の哲学』もヒット。小説デビュー作となる本書では、いきなり野間文芸新人賞を射止めたほか、受賞は逃したが芥川賞にもノミネートされている。

 その『デッドライン』は、2000年代前半の東京を舞台にした、自伝的な小説。主人公は、大学院の修士課程に進学したゲイの青年。新宿二丁目のハッテン場に通い、行きずりの相手とセックスする一方、ジル・ドゥルーズの哲学をテーマに修士論文を書いている。

 大学院サイドの登場人物で印象的なのが、指導教員の徳永先生(モデルは中国哲学が専門の中島隆博氏らしい)。先生は、荘子が川で泳ぐ魚を見て「あれが魚の楽しみだ」と言った逸話をとりあげて、学生たちに議論させる。「荘子はなぜ魚の気持ちがわかったのか?」という疑問から、自己と他者の分断というテーマが浮上。問題の瞬間、荘子は魚になり、魚は荘子になったのだという「胡蝶の夢」的な結論が導かれる。川で泳ぐ魚のイメージがセックスを求めて夜の街を回遊する男たちに重ねられたり、何かに〝なる〟ことが登場人物によって実践されたり、愉快な哲学問答が小説自体とも密接にリンクし、それが小説論のようにも見えてくる。この徳永先生パートでは、「それだけで済めばありがたいのですが」という(メルヴィルの短編の名台詞をもじった)決め台詞や、「別の仕方で」というキラーフレーズが絶妙のタイミングで挿入され、笑いを誘う。

 題名のデッドラインとは、直接的には修士論文の締切を指し、その割に作中ではけっこう雑に扱われるのだが、ドゥルーズの哲学と〝僕〟の人生が不可分に結びついている(だからこそ論文が書けなくなる)あたりの切実感と妙な生真面目さ、それと裏腹のダメっぷりがおもしろい。すでにノスタルジックな香りが漂う、ゼロ年代青春小説の秀作だ。

(文/大森 望)
〈「STORY BOX」2020年3月号掲載〉
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