『君の膵臓をたべたい』が実写映画化。今最も話題を集める作品の魅力を探る。

インパクトのあるタイトルや感動必至の青春ストーリーが話題の『君の膵臓をたべたい』。2017年7月公開の実写映画と原作小説の違いや魅力を解説します!

2015年に発表されて以来、注目を集めている小説、『君の膵臓をたべたい』

作家、住野よるのデビュー作でもあるこの作品は一見、おどろおどろしい印象のタイトル、読者の予想を裏切る号泣必至の展開が評判を呼び、若い世代を中心に支持を集め続けています。その勢いは日に日に大きくなり、2016年本屋大賞では2位を、2016年の国内における年間ベストセラーでは第1位を獲得しています。

そんな『君の膵臓をたべたい』は2017年7月28日に実写映画が公開。小栗旬、北川景子といった実力派俳優たちが出演することからも大きな注目を集めています。

なぜ、こんなにも『君の膵臓をたべたい』は多くの人から支持を受けるのでしょうか。今回は映画公開も待ち遠しい、作品の魅力に迫ります。

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“呼ばれ方”から読み解く、主人公のキャラクター

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出典:http://amzn.asia/0c1zAEC

『君の膵臓をたべたい』は主人公の“僕”とクラスの中心人物である山内桜良やまうち さくらのふたりを中心とした物語です。

ある日、通院していた病院で“僕”が見つけたのは「共病文庫」と名付けられた日記帳でした。それがクラスの中心人物、桜良のものであること、「膵臓の病気のため、1年ほどしか生きられない」と綴られていたことを知った“僕”は半ば強引に桜良の「死ぬまでにしたいこと」に付き合わされるようになっていくのでした。

原作小説には、クライマックスまで“僕”の名前が一貫して出てこないという特徴があります。クラスメイトからは【地味なクラスメイト】くん、図書室の先生からは【大人しい生徒】くんと呼ばれているように、“僕”の名前が、徹底して出てこないのはどういった理由からなのでしょうか。

「君やキョウコさん以外は、僕のことを【地味なクラスメイト】か、それ以下にしか思ってないよ」
「それは本人達に訊いたの?」
彼女は、僕の人間性の核心を衝くように首を傾げた。
「訊いてないよ。でも、そうだと思う」
「そんなの本人に訊いてもないのに分かんないじゃん。ただの【仲良し】くんの想像でしょ? 正しいとは限らないじゃない」
「正しくても正しくなくてもいいんだ、どうせ誰とも関わらないんだし、ただの僕の想像だから。僕がそう思ってるだけ。名前を呼ばれた時に、僕はその人が僕をどう思ってるか想像するのが趣味なんだよ」

このやりとりからもわかるように、“僕”にとって名前の呼ばれ方は、自分の印象を想像するためのツールにしか過ぎません。クラスメイトからの呼ばれ方が【地味なクラスメイト】、【根暗そうなクラスメイト】といったマイナスなイメージのものばかりなのは、「クラスメイトは自分のことをそんな風にしか見ていないに違いない」という半ば諦めに近い思いでした。

それでも、病院で出会った際は“僕”のことを【地味なクラスメイト】くんと呼んでいた桜良も、【秘密を知ってるクラスメイト】くんから【仲良し】くん、最終的には【?????】くんと呼ぶようになっていきます。桜良からの呼ばれ方が変わっていくのは、僕が桜良から「仲良しだと思われたい」という気持ちの表れ。「他人にどう思われているのかを自分の中で想像して終わらせる」“僕”は、自身を「自己完結」と称していますが、桜良との出会いをきっかけに少しずつ変化していきます。

また、“僕”の名前のヒントはさまざまな場面で登場しています。たとえば、桜良の「君みたいな名前の小説家いるよね?」という言葉や、桜良以外で話しかけてくるクラスメイトからの呼びかけられ方。

“僕”が桜良の言葉に「どっちが思い浮かんでいるのか知らないけど」と返していることから名字と名前のどちらも小説家と同じであり、「よう、【噂されてるクラスメイト】ぁ。」という呼ばれ方からは“あ”の音で終わる名前であることが読み取れます。このようなわずかなヒントから、“僕”の名前を想像するのも、原作小説の楽しみ方のひとつです。

一方で、住野氏は映画化が決まった際、「小説家になろう」のサイトで以下のようなコメントを寄せました。

映画には、主人公の名前の遊びがありません。
そのまま名前を周りの人達が呼びます。
それをどう感じられるかも、映画館に行かれるかの判断材料にしていただければと思います。

原作小説では名前の呼ばれ方から主人公のキャラクター設定を行っていましたが、映画では目に見える形で登場人物たちが動くため、そのような演出がされていません。原作小説の大きな特徴を用いない映画では、“僕”のキャラクターが新たな形で描かれているのです。

 

映画が描く、登場人物たちのその後。

映画では“僕”と桜良の交流を描いた「過去」、そこから12年後の「現在」というふたつの時間軸をもとに物語が進んでいきます。原作には無かった“僕”と桜良の親友、恭子のその後について、住野氏は読者に向けて映画化についてのコメントとして「小説家になろう」でこうも語っています。

報道にも出てましたが、映画は原作とはストーリーが違います。
実際パラレルワールドの話だと思っていただいた方がいいと思います。
人によっては原作と違う作品なのかと感じられる方もおられるかもしれません。
映画には未来パートがありますが、それは映画サイドの方達が考えたものなので、僕が未来を書けばまた違う形になると思います。
そういう点も踏まえて観るか観ないか決めていただけたらいいのではないかなと思ったりします。
(小説家になろう より)

住野氏は映画を「パラレルワールド」としていますが、“僕”は原作小説で桜良が“僕”に投げかけた「教えるの上手いなぁ、教師になりなよ」という言葉の通り教師となっています。そして、赴任した母校で図書館の蔵書整理を頼まれたことから、桜良との思い出を回想していくのです。

当初は人との関わりを避けていた“僕”は桜良の提案に対し、「どうして君は、そう人間と関わる仕事ばっかり提案してくるわけ?」と反対します。それでも“僕”が多くの人と関わる教師になったのは、桜良との出会いで「人と関わることを選んだ」からこそ。

映画は、そんな原作小説を踏まえての物語。原作を読めば、映画でしか見られない「現在」もより楽しめるはずです。

 

原作小説と映画、それぞれの持つ作品の魅力。

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実写映画では、喪失感を抱えたまま大人になった“僕”と桜良の親友、恭子が桜良と過ごした日々を思い返す姿が描かれています。

“僕”と桜良が過ごした図書館に隠された、桜良の本当の思いはどのようなものなのか。桜良が恭子に宛てた手紙に込めたメッセージとはなんだったのか。原作には無い感動が詰まった映画は、原作を知らなかった人たちの感動も誘うこと間違いありません。

ただの恋人や友人という言葉で片付けられるものではない、“僕”と桜良の関係。それを過去と現在、ふたつの時間軸をもってどう描かれるのか、期待が高まりますね。

初出:P+D MAGAZINE(2017/07/17)

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