大河ドラマ『いだてん』で話題! 古今亭志ん生・伝説の物語『志ん生一代』が活写する破天荒な落語家人生

NHKの大河ドラマ『いだてん』でも注目の落語家・古今亭志ん生。稀代の大名人と称され、今もカリスマ的人気を誇るその人生は、実に波乱に満ちたものでした。結城昌治『志ん生一代』は、貧乏と不遇を経て五代目・志ん生を襲名するに至るまでの軌跡をドラマチックに描いた傑作長編。爆笑問題・太田光氏による、志ん生への“思い”を込めた解説を公開します。

『いだてん』では、自ら古今亭志ん生を尊敬している、ビートたけしが熱演し、昭和の大名人に再び注目が集まっています。「飲む・打つ・買う」の三道で、師匠を怒らせ、仕事をしくじり、19回に及ぶ改名をし、借金を重ね、何度も同じ失敗を繰り返した、ダメ芸人の典型でしたが、芸だけは超一流。そんな破天荒な人生を描いたのが、結城昌治の名作『志ん生一代』です。
今回は落語好きで自身もお笑いを生業としている、爆笑問題・太田光の文庫・解説を全文紹介します。落語と漫才、どちらも目の前の客がすべてだという、芸人が持つべき潔い覚悟が胸を打ちます。

『志ん生一代』・解説

志ん生の『フラ』

爆笑問題・太田光

 芸人は目の前の客にウケなきゃ終わりだ。それだけだ。簡単なことだ。こうして志ん生の一生を見てみるとよくわかる。 
 しかしこの簡単なことが実際芸人になってみるとなかなかうまくいかない。世間の落語通の間ではよく『フラ』という言葉を使う。なんだかわからない言葉だが、五代目古今亭志ん生にはよく使われる。私はこの伝記を読んで『フラ』とは『無垢』だと思った。 
 二つ目時代だったか、志ん生は「客だけが俺の芸の相手だ」と改めて思う場面がある。 私はその部分が一番好きだ。 
 席亭でも、うるさ型のタニマチや評論家、師匠連中でもない。客にウケたいんだと。目の前の客が俺の相手だと。俺の落語は客に向けてやってるんだ。と。
「客にはウケるだろうが、芸としてはうまくない」とか言ってくるやつがいる。芸人をしていると、どうしたって世間の評価や人気が気になる。そっちに向けて芸をしたくなるものだ。なかなか無垢のままではいられない。いろんな欲があり、誘惑がある。  
 志ん生という人は、生涯無垢でいた人だと思う。朝太の時代から志ん生になるまで、一点の曇りもない綺麗な魂のままでいられた人なのだ。「客だけが俺の芸の相手だ」と。 
 芸人誰もが売れたいと思う。金がほしいと思う。通や評論家、玄人に誉められたいと思う。賞がほしいと思う。分析し、上手さを追求する。それもまた一つの生き方かもしれない。その誘惑に惑わされないでいることは至難の業だ。 
 人が大人になってだんだんと無垢でなくなっていくように、芸人もまた無垢でいるのは難しい。芸に余計な意味を含めたくなる。インテリが評価するような技を入れたくなるものだ。 
 志ん生は見習い、前座から真打ち、名人になるまで無垢なままだった。自分と芸と客の間に余計なものを入れなかった。私は、これが人が言う『フラ』なのだと思う。 
 人は赤ん坊の時、誰しも『フラ』がある。赤ん坊の泣き声、しぐさ、表情。は、『フラ』を持っている。何とも言えない可愛げ、自然さ、惹き付けられる魅力がある。母親に対して真っ直ぐだからだ。だからこそ、人は赤ん坊に注目し、その表現しようとする所を理解しようとし、表現に共感する。やがて言葉を理解出来るようになり表情を覚えるようになり、婉曲な言い回しを覚え、相手の顔色を見て、感情を分析するようになると、『フラ』が消えていく。どこか奥の考えが見える。芝居がかる。大げさになる。 
 大人になって、子供の口調を真似ようとしてもどうしてもわざとらしく、大人が演じる子供にしかなり得ないものだ。
 『フラ』は持って生まれたもの、で、練習で身につけられるものではない。と言われる。他の芸人が志ん生を真似ようとしてもどうしてもわざとらしくなる。あの丁度良い高い声。言い回し、トーン、ポッと出てくる言葉。練習して真似出来るものではない。
 誰もが生まれた時は魂が汚れていない。成長するにつれ、計算が入り、理屈が入り、社会性が入り、いろんな物が付着して、徐々に透明度が減り、濁っていくものだ。 
 志ん生は無垢なまま、生まれた赤ん坊のまま名人になったのだ。 
 酒より博打より女より、芸が好き。芸の相手は目の前の客だけ。 
 芸術ではなく、伝統芸能でもなく芸。圧倒的な大衆芸だ。だからこそ、志ん生は上手い下手を超越した、落語を超えた、古今亭志ん生というジャンルになり得た。 
 とにかく目の前の客を笑わせたい。 
 一度でも舞台に立ったことがある芸人なら誰もがわかる、祈りにも似た気持ちだろう。いくら自分では上手いネタをやったつもりでも客にウケていなければいたたまれない。クスリともしない客の前では、どんなベテランでも大御所でも、まるで迷子の子供のように泣きそうになり、今すぐ消えてなくなりたくなるものだ。その時のネタがたとえ攻めてて、斬新で、高尚なものであったとしても、客がウケなきゃ、恥ずかしくて恥ずかしくて、すぐにでもソデに引っ込みたい。楽屋にも寄らずそのまま誰もいない場所へ逃げてしまいたい。 
 今も昔も同じだ。芸人をやっている人間で、この気持ちを味わったことがない者は、おそらくたったの一人もいないだろう。そんな経験をする度に我々は思う。 
 目の前の客を笑わせたい。 
 何でもいいから笑わせたい。 
 審査員など必要ない、その日誰がウケて誰がウケなかったか。はけた後の楽屋にいる芸人は誰もがわかる。ウケた奴は晴れ晴れとした顔をし、口数が多く、いつまでもその余韻に浸っていたいもんだから、なかなか楽屋を出ようとしない。他の芸人とどうでもいい話をしながら、ウケたネタを繰り返し、思い出し振り返る。はずした芸人は自然と楽屋の隅にいき、なるべく誰とも話したくない。早く忘れたい。中には今日の客は重いなどと、客のせいにして愚痴を言ったりしているが、誰に聞かなくても自分の芸がまずかったことは本人が誰よりも自覚しているものだ。 
 芸人の楽屋は残酷だ。勝者と敗者がはっきりと分かれている。誰の目にも一目瞭然に。 
 二度と敗けたくない。二度とこんな思いはしたくない。芸人は誰しも思い知る。だからこそ、どんなことをしてでも目の前の客を笑わせたい。
 「客だけが俺の芸の相手だ」 
 という志ん生の言葉に、時代を超えて心から共感し、感動する。名人志ん生がそう思っていたということが、私を励まし、勇気を与え、やっぱりそれでいいのだ。と、確信を与えてくれる。 
 最近では学者やインテリ達が、やれ日本の笑いはレベルが低いだの、下品だの、乱暴だの、批判精神がないだのと、利いたふうな理屈っぽい言葉で大真面目に語ることが多くなった。勘弁しろよ。と思う。 
 落語は何もかも笑い者にしてきた。知ったかぶりのご隠居も、強欲な大家も、威張り散らした侍も、世間知らずな殿様も、長屋暮らしで気が短い大工も、ヤクザや博打打ちも、したたかな遊女も、気位の高い花魁も、貧乏で喧嘩ばかりの夫婦も、頭の弱い与太郎も。強者から弱者まで、上だろうが下だろうが、なんでも丸めて笑ってきた。 
 芸人はメッセージなど、考えたら終わり。ただ目の前の客を笑わせたい。それだけだ。だからこそ芸人になったのだ。 
 どうも、なまじ頭の中に理屈が詰まった連中にはこのことが伝わらない。 
 読まないだろうけど、そういう連中にこの本を読んでほしい。落語界最大の名人と言われる志ん生の一生は、高尚でもなければ、立派でもない。出来損ないの未熟な人間のどうしようもない、とても見習っちゃいけない人生だ。偉人伝とは嘘でも言えない。 
 酒好き女好き博打好き。だけどその全てより芸が好き。こう生きるしか道がなかったからこう生きた人。 
 シェークスピアやチャップリンのように政治や社会に大きな影響を与えたというわけではない。というか、そんな思いは一ミリもない。ただただ、目の前の客を笑わせたい。少しでも上手くなりたい。
 『客だけが俺の芸の相手だ』 
 と、大名人になったあとも、死ぬまで思い続けられた人。魂がずっと濁らないまんまだった人だ。 
 いろんなことがわかってる知識人は、憧れないかもしれないが、芸人は、こういう人に憧れるのだ。
 芸人が心から欲しいのは、地位でも名誉でも名前でもない。目の前にいる客を、苦しいと思うほど笑わせる力だ。こんなに言葉を重ねることもない。本当に本当に、簡単なことなのだ。この気持ちは一度でも人を笑わせようと舞台に立ったことがある人なら誰もがわかるはずだ。 
 しかし今の世の中。というか、昔から変わらないのかもしれないが、簡単なことが一番理解してもらえない。 
 そして私は密かに思っている。これは何も日本の芸人だけでなく、おそらく世界中のコメディアンに共通する思いだろうと。

爆笑問題・太田光 プロフィール

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太田 光
生年月日:1965年5月13日
出身地:埼玉県
血液型:0型
学歴:1985年 日大芸術学部演劇科中退
TVやラジオなどで幅広く活躍中。

結城昌治『志ん生一代』

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初出:P+D MAGAZINE(2019/07/20)

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