ポジティブなんて役立たない。文豪の“うしろ向き”名言集

カフカやヴォネガット、寺山修司……。かつて文学の世界で活躍した偉大な作家たちの名言の中には、ときにとてもネガティブな言葉が見られます。今回は、そんな文豪の“うしろ向き”な言葉に焦点を当て、名言としてご紹介します。

自信をもつことだ。そうすりゃ道は自然にひらけてきます
──ゲーテ

今この瞬間の幸せ、愛を決して手放してはならない。それこそがこの世界の真実なのだから
──トルストイ

これらの言葉はどちらも、文豪による名言としてしばしば紹介される言葉です。自信の大切さを説くゲーテと、幸福感や愛の大切さを説くゲーテ。これらの言葉はたしかに説得力を持つものではありますが、もしも自分が落ち込んでいるときや人生に対して希望を持てなくなっているときに耳にしたら、「うるさいな」と思ってしまうような力強さを感じはしないでしょうか。

偉大な文豪や文化人たちの名言として紹介されがちな言葉には、立派で前向きなものが多く見られます。しかし、弱い存在である私たちは、常にそう前向きな気持ちでばかりいられないのも事実です。

そこで今回は、国内外の文豪たちが残した“うしろ向き”な名言を厳選してご紹介します。

「ひとりでいれば何事も起こらない」──フランツ・カフカ


出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4102071059/

ぼくはひとりで部屋にいなければならない。
床の上に寝ていればベッドから落ちることがないのと同じように、ひとりでいれば何事も起こらない。

『変身』や『審判』といった代表作を持つチェコ出身のドイツ語作家、フランツ・カフカ。20世紀を代表する小説家とも呼ばれるカフカですが、彼は非常にネガティブな性格の持ち主で、日常生活や家族との関係、健康状態といったさまざまな身近なできごとにまつわる“不安”をその日記や手紙の中に書き残していたことが知られています。

カフカは非常に控えめで物静かな人間であったと同時に、結核を患ったことをきっかけに常に健康状態を気遣う生活を送っていたと言われています。彼は会社に通いつつも、その関心は常に家にひとりで引きこもることに注がれていました。カフカの言葉からは、ひとりでいればなんの面倒ごとも起こらないのに、どうして皆、人と関わりたがるのだろうか──というある種の達観を感じます。

カフカは、しだいに自分が時代を代表する作家となっていったことについて、自身のノートの中でこのように回想しています。

ぼくは、ぼくの時代のネガティブな面をもくもくと掘り起こしてきた。
現代は、ぼくに非常に近い。だから、ぼくは時代を代表する権利を持っている。
ぼくは現代のネガティブな面を掘りあて、それを身につけてしまったのである。
ポジティブなものは、ほんのわずかでさえ身につけなかった。

「ひとたびそれが言われたならば、たとえ一時的にしろ、それが真実なのである」──ロラン・バルト


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ひとたびそれが言われたならば、たとえ一時的にしろ、それが真実なのである

フランスの哲学者・批評家であるロラン・バルト。『恋愛のディスクール・断章』は、彼自身の体験や友人との会話、さまざまな文学作品の引用などを元にした、恋愛にまつわる随筆集です。

この言葉は、『記号の不確かさ』についての章の中の一節です。恋愛をしたとき、意中の相手の些細な言動や行動のすべてになんらかの意味が潜まれているように思えてしまい、ただ会話をしているだけで疲弊しきってしまう──という方もいるのではないでしょうか。

この問題に関して、バルトは言います。

真実を望む者に、答えは常に強烈で鮮烈なイメージで与えられている。しかし、そうしたイメージを記号に変換しようとすると、たちまちに曖昧かつ浮動するものになってしまう。(中略)恋愛について問う者もまた、自らその真実を作り出すほかないのである。

記号は証拠にはならない。誰にだって、偽りの記号、両義の記号を作り出すことができるからだ。だからこそ、逆説的なことではあるが、言語の全能性へと向かわざるをえないのである。

人の行動には、当然ですがさまざまな余地があります。だからこそ、“言われた言葉をそのまま受け取ること”こそが愛する人を信じることのできる唯一の道だとバルトは逆説的に説くのです。それがたとえ本心から出ていない言葉でも“真実”になりうるというのは絶望的に聞こえるかもしれませんが、反面、とてもやさしい教えかもしれません。

「わけのわからん奴だけが、クラス委員になりたがる」──カート・ヴォネガット


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我々の素晴らしい憲法にはひどい欠陥があって、どうすれば直せるのかわからない。要するに、狂人だけが大統領になりたがるってことだ。
わたしの高校でもそうだった。本当にわけのわからん奴だけが、クラス委員になりたがる。

この言葉は、アメリカの小説家、カート・ヴォネガットがイースタン・ワシントン大学でおこなった講演の中でのひと言です。ヴォネガットは、権力を持っている者が必ずしも正しいことをするわけではないという世の中の暗黒面を若者たちに説くにあたり、こんなユーモラスな表現を選びました。彼の言葉はこう続きます。

だが、よく考えてみれば、選択肢があるんなら、人類になろうとするような奴は狂人だろう。我々は不実で、信頼できず、嘘つきで、貪欲な動物なのだ!(中略)
お願いだから、わたしを信頼しないでくれ。そんなことは耐えられない。

ヴォネガットは“わたしを信頼しないでくれ”という言葉で話にオチをつけつつも、絶望的な社会の中にはそれでも音楽という素晴らしいものがあり、音楽のような救いはこの世のあらゆる場所に存在する──と話を進めます。

神の存在を証明するには、音楽だけで十分だ

という彼の言葉には、思わず頷いてしまう人も多いのではないでしょうか。

「病人には回復するという楽しみがある」──寺田寅彦


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健康な人には病気になる心配があるが、病人には恢復かいふくするという楽しみがある。

明治から昭和初期にかけて活躍した物理学者・随筆家・俳人である寺田寅彦。この名言は、寺田が昭和8年に発表した短い随筆作品『KからQまで』の中の一節です。彼は、こう言葉を続けます。

瀕死を自覚した病人が万一なおったらという楽しみほど深刻な強烈な楽しみがこの世にまたとあろうとは思われない。古来数知れぬ刑死者の中にもおそらくは万一の助命の急使を夢想してこの激烈な楽しみの一瞬間を味わった人が少なくないであろう。

“瀕死を自覚した病人”ではなくとも、風邪を引いたり怪我をしたりしたときに、その傷や苦しみやすこしずつ癒えていくプロセスに心地よさを感じたことがある方は少なくないのではないでしょうか。心身が自由であることのありがたみを存分に享受することができるのは、健康なときではなく、むしろ病気の渦中にいるときなのかもしれません。

「希望を持つようになったらおしまいだよ」──寺山修司


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「希望を持つようになったらおしまいだよ」とよく、バーテンの野崎が言うのだ。「ほんとに、希望を持つようにはなりたくねえもんだ」
それは、人間のかかる最後の病気なのである。

この言葉は、昭和に活躍した歌人・劇作家の寺山修司による随筆『幸福論』の中の一節です。寺山は、知人のバーテンダーの「希望を持つようになったらおしまいだよ」という台詞を引用しつつ、世の中の多くのサラリーマンたちは、現在を「世をしのぶ仮のすがた」だと捉え、“本当の自分が他にいるはずだ”という根拠のない希望を胸に秘めていると説きます。そして、彼らが定年まで勤め上げたあとに、「こんな人生を送るはずではなかった、これは本当の俺ではない」と泣き叫ぶ姿を想像するのです。

寺山は言います。

希望を際立たせるために、今日の先端と明日とのあいだの国境線を設けるものには「幸福」を論じることなどできないのである。

今日の自分をありのままに引き受けることのできない者は、一生「幸福」を感じることができない。これは冷たい言葉のようにも聞こえますが、いま現在というものに目を向けさせるための、寺山流の叱咤激励と捉えられはしないでしょうか 。

おわりに

今回ご紹介した名言の多くは、この世をただ悲観するのではなく、絶望だらけのこの世をどうにか生き延びるためにはどのような心持ちでいればよいかを示唆してくれるような言葉でした。

ヴォネガットが言うように、「選択肢があるんなら、人類になろうとするやつは狂人」と思えるほど、私たちが生きる人間社会には暗く悲しいできごとばかりが溢れています。しかし文学作品を読むことは、その悲しさをすぐに癒やす効果はなくても、遅効性の薬のようにじわじわと私たちの心に作用してきます。

今回ご紹介した名言の出典元となっている作品は、どれも魅力的な随筆ばかりです。ぜひこれらの作品にも手を伸ばし、文学者たちの“うしろ向き”だけれどあたたかい言葉に触れてみてください。

初出:P+D MAGAZINE(2021/01/13)

西川美和さん 第2回 インタビュー連載「私の本」vol.13
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