歌人も詠まずにいられない、「猫」にまつわる短歌8選

古今東西、多くの文士たちから愛され文学のテーマとされてきた“猫”。今回は、愛らしい飼い猫の歌や道端を行く野良猫を詠んだ歌など、“猫”が主役の現代短歌を8首紹介します。

古今東西、あらゆる文豪や文筆家たちから愛され、作品のテーマにもされ続けてきた“猫”。猫が登場する文学作品と言えば、夏目漱石による『吾輩は猫である』やエドガー・アラン・ポーの『黒猫』など、小説を最初に思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。しかし、詩歌──特に短歌の世界でも、“猫”はしばしば詠まれるテーマです。

今回は、猫の愛らしい様子を詠んだ歌や、街角の猫の歌、はたまたふてぶてしいけれど憎めない飼い猫の歌など、猫にまつわる歌人の短歌を8首ご紹介します。

1.“猫の耳を引っぱりてみて、にゃと啼けば、びっくりして喜ぶ子供の顔かな。”

この歌は、石川啄木の歌集『悲しき玩具』のなかの1首。啄木が飼い猫の耳をふざけて引っ張ったところ、驚いた猫がにゃっと声をあげ、それを見て子どもが喜んだ──という微笑ましい様子を、比喩や難解な表現を用いることなくどこまでも素朴に詠んでいます。

注目すべきは、歌の主眼が猫ではなく、猫の反応を見て喜ぶ子どものほうに置かれていること。口語で詠まれた軽やかな歌ですが、結句の“子供の顔かな”にのみ切れ字が用いられており、子どもの表情の豊かさや愛らしさがここで強調されていることがわかります。猫と子ども、それぞれのリアクションが生み出した穏やかな一場面をストレートに切り取った名歌です。

2. “顔よきがまづ貰われて猫の子のひとつ残りぬゆく春の家”

春に生まれた子猫たちが、顔の可愛らしい順にもらわれていく。ところが1匹だけ残ってしまった子猫は、まだ自分の家にいる──。そんな光景を詠んだこの歌は、短歌結社・竹柏会ちくはくかいを主宰し、昭和期に活躍する多くの歌人を育成したことでも知られる佐佐木信綱による1首です。結句の“ゆく春の家”という言葉からは寂しくもほのぼのとした様子が感じられ、1匹だけ残ってしまったその猫を、作中主体がやさしく見守っている雰囲気が伝わってきます。最後の1匹はもらわれていかず、そのままこの家の飼い猫になって幸せに暮らしたのではないだろうか、と想像を巡らせてしまうような歌です。

ちなみに、作者の佐佐木信綱の家系は歌人一族で、信綱の孫・佐佐木幸綱も現代短歌界を牽引してきたベテラン歌人。幸綱は2020年に飼い犬のゴールデンレトリーバー・テオについての歌を集めた第17歌集『テオが来た日』を発表しており、こちらは大の愛犬家のようです。

3. “街上に轢かれし猫はぼろ切か何かのごとく平たくなりぬ”

この歌は、短歌結社『アララギ』の中心人物であった歌人・斎藤茂吉による1首。車に轢かれて“ぼろ切”の如く無残な姿になってしまった猫を、冷酷にも思えるほど徹底したリアリズムで詠んでいます。

斎藤茂吉が本歌を作ったのは1934~1935年頃ですが、戦前の歌とは思えないほど、この1首からは現代的なニヒリズムと批評性が感じられます。斎藤茂吉は猫についての歌を他にも多く詠んでおり、猫の舌に触れたときの手ざわりを“悲しさ”と表現した“猫の舌のうすらに紅き手ざはりのこの悲しさを知りそめにけり”も同じく有名な1首です。茂吉にとって猫は身近な愛らしい動物というよりも、悲しさや生の儚さを連想させるような存在に見えていたのかもしれません。

4. “猫は庭をみる針の目に ゆめのやうなるいきものとなりて”

鋭敏な感覚で生を巡る不安を短歌にし、“幻視の女王”とも呼ばれた歌人・葛原妙子による1首です。細い“針の目”で庭を見ている愛猫の様子を、“ゆめのやうなるいきもの”とまるでこの世の生き物ではないかのように捉えたところに葛原の歌らしさが表れています。

葛原は猫にまつわる短歌をほかにも多く詠んでいますが、“胡桃ほどの脳髄をともしまひるまわが白猫に瞑想ありき”、“この部屋のいづこにひそみゐるならむ猫よ全開の瞳をもちて”など、どれも半写実的・幻想的な歌であることが特徴です。猫を飼っている人であれば、ふとした瞬間に、猫がまるで人間には見えない世界を見ているかのように佇んでいる瞬間を味わったことがあるのではないでしょうか。葛原の歌からは、そんなワンシーンが想起されます。

5.“シャボンまみれの猫が逃げだすひる下がり永遠なんてどこにも無いさ”

現代口語短歌を代表する歌人・穂村弘による短歌です。この歌が収録されている穂村の第2歌集『ドライ ドライ アイス』には、風景を写実的に詠むのではなく、共感性の高い場面をまるで漫画やJ-Popの歌詞のようにキャッチーに提示し、一瞬にしてそのイメージを読者と共有してしまうようなユニークな歌が並びます。

この歌もそういった作品群と同様に、現実の光景を詠んだものではないように思えます。メルヘンチックでややリアリティのない“シャボンまみれの猫”という表現は、実在の猫の描写ではなく、“永遠”という概念のメタファーなのでしょう。永遠に続くかと思えていたときが不意に終わる瞬間を“猫が逃げだす”という行為に象徴させた、ポップな悪夢のような1首です。

6.“猫としてわがかたはらにゐてくれるあなたはだれか青い夜の雪”

雪の晩、自分の隣にいつもいてくれる猫がふと、猫の姿をした“だれか”であるように思えた──。そんな幻のようなひとときを詠んだ、歌人の小島ゆかりによる歌です。

言葉が通じないはずの動物のふとした行動から、人間に対する共感や愛情を感じとるときは誰にでもあるもの。美しいと同時にどこかエゴイスティックでもあるその気持ちを、嬉しさやありがたさ、申し訳なさといった感覚を突き抜け、猫ではないはずのだれかが猫になって目の前にいるのかもしれない、というある種の不可解さや神秘性として表現している名歌です。“青い夜の雪”という美しい表現も、一読しただけではっとしてしまうようなこの歌の幻想的なムードを強めています。

7.“帰るたび「どなたですか?」と嗅ぎにくる猫と十年暮らしています”

猫好きな方であれば必ず「あるある」と微笑んでしまうようなこの歌は、“猫歌人”という肩書きで猫にまつわる短歌を詠んできた歌人・仁尾におさとるによる1首。

現在も家で5匹の猫と共に暮らしているという仁尾は、“猫がくるほめてほめてという顔で何か不穏なものをくわえて”、“愛に似て生温かくやや痛い猫におでこを舐められている”、“僕の手にもう生傷がないことで子猫が猫になったと気づく”──といった、猫のいる生活の手ざわりをそのまま感じられるようなあたたかでユーモラスな歌を多数詠んでいます。猫を飼っている方は共感すること間違いなしですが、そうでない方にとっても、猫との暮らしを疑似体験できるような作風が魅力です。

8. “君からの手紙はいつも届かない切手を猫に舐めさせるから”

この歌は、『つむじ風、ここにあります』『きみを嫌いな奴はクズだよ』などの歌集で若い読者から支持を集める歌人・木下龍也による1首。

手紙が“いつも届かない”ことと“切手を猫に舐めさせる”ことには、本来はなんの関係もないはず。しかし、そこに無理やり相関関係を見出し、意中の相手(もしくは、気まぐれな恋人や友人でしょうか)である“君”からの手紙が届かないのは猫のせいだ、と詩的な飛躍を用いて結論づけているところにこの歌の魅力があります。明らかな作り話でありながら、猫に舐めさせた切手で送る手紙はもしかしたら異次元に届くのかもしれない──と不思議な説得力も感じさせてしまう、チャーミングな1首です。

おわりに

猫との暮らしを詠んだ生活感あふれる歌から、半写実的でどこか幻想的な歌まで、猫にまつわる短歌の魅力はさまざまです。

しかし、歌人たちによる猫の短歌をこうして並べてみると、多くの歌のなかで猫はただ可愛らしい動物ではなく、異世界と私たちの暮らす世界を行き来するような特別な存在として詠まれていることがわかります。猫の気ままさや行動の予測のつかなさ、神出鬼没さが多くの歌人にそのようなイメージを与えているのかもしれません。次に街角で猫を見かけたら、彼らの自由な姿をヒントに、ぜひ短歌を詠んでみてはいかがでしょうか。

初出:P+D MAGAZINE(2021/10/12)

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