時代を超えて読み継がれるノンフィクション5選

新聞記事とは役割や性質が異なるものの、事実を丹念に積み上げて綴るノンフィクションは時代を映す知的生産物。事実を克明に記録した優れたノンフィクションは時代に流されることなく読み継がれます。さまざまな分野を題材にした5作品を選んでご紹介します。

「新聞記事は、歴史書の最初の草稿である」--。新聞社が時の政権と闘う姿勢を描いた米映画『ペンタゴンペーパーズ』で交わされる台詞の一つです。時々刻々と変わる世の中の動きを伝える使命を負った「新聞」の本質を捉えています。

速報性では通信系に及ばず、賞味期限も短い新聞記事は時間経過と共に歴史的事実として定着します。「歴史書の最初の草稿」とされるゆえんです。

それらが異なる個々の新聞の集大成であるのに対し、ノンフィクションは多くの場合、一人の筆者や一つのチームがテーマを掲げて取材資料発掘を続けた結果の成果物といえるでしょう。

社会、産業、政治、歴史、経済に取材したノンフィクション5作品を選んでご紹介します。

1:職業的葛藤の舞台裏ーー『昭和最後の日ーテレビ報道は何を伝えたか』(日本テレビ報道局天皇取材班)


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「昭和最後の日」とはもちろん、昭和天皇が崩御された日のこと。この日のために新聞、テレビ、ラジオ、雑誌などのマスコミは連日、熾烈な報道合戦を繰り広げました。

その中で、日本テレビ取材班は1988年9月19日に天皇吐血をスクープします。当時の報道の焦点は昭和天皇の病状と真の病名でした。実は同社ばかりでなく、報道各社は早い段階でかなり正確な情報をつかんでいました。しかし、病名が生前に明らかにされることは決してありませんでした。なぜか。それこそが本書の重要な主題です。

病名の公表を妨げた理由の一つは30年以上前の「がん告知」の捉え方にあります。ある日の定例情報交換で取材班は、

「天皇は毎日、新聞やテレビを見るわけだし、科学者でもある。つまりがんに近いニュアンスの記事が出ただけで自分の病気に勘づいても不思議ではない。そうなると報道の姿勢も問われてくる」

というやり取りをします。結果的に、昭和最後の日となった1989年1月7日午前9時20分からの会見で「最終診断は十二指腸乳頭周囲潰瘍」であることが公表されました。
その夜、日本テレビの記者は現場報告で

天皇陛下のご病気の本体がこれまで発表されてきた慢性膵炎ではなく、がんであることを早くから確認していました。しかし、陛下ご自身や身内の方々への告知の問題、それと社会的影響の大きさにかんがみて報道を差し控えてきました

と視聴者への理解を求めました。
真実を伝える、報道機関としての使命と、それを存命中に伝えられなかったやるせなさ。取材班の誰もが病名告知に対する苦悩を抱えていたといいます。そんな彼らに高木顕侍医長は「いくら一生懸命取材してくれたって、患者である陛下にとって何もいいことはないんだよ」とつぶやきます。

報道最前線でしのぎを削る人たちと宮内庁を取り巻く人たちの様子を対比させながら、がん患者への病名告知のあり方難しさを考えさせてくれる一冊です。

 

2:トヨタ生産方式から比類なき「強さ」を捉え直したーー『トヨタ物語』(野地秩嘉)


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表題の「物語」という文言に惑わされてはいけません。期待が良い方に外れる場合があるからです。

取り上げた企業や歴史的事実を丹念に書き込むことで定評のある野地秩嘉はこれまでにも『キャンティ物語』『TOKYOオリンピック物語』という佳品を上梓しています。

しかし、同じ「物語」という言葉を用いていながら『トヨタ物語』はそれらと同系列ではありません。「物語」と銘打ち、企業本の定石通り歴史をなぞり、時々のトピックスにスポットライトを当てるという構成を取りながら、独自の経営手法である「トヨタ生産方式(Toyota Production System:TPS)」の紹介と解説に紙幅を割いているからです。

野地はトヨタの比類なき強さの秘密が独自の生産手法たるTPSにあることを7年がかりの丁寧な取材で浮き彫りにします。

試みにTPSをGoogleで単純に検索した時の該当件数は約817万。ネット情報ばかりではありません。TPSは今日、自動車業界だけでなく世界のさまざまな生産現場で採用されている製造業の標準的な手法とされています。

トヨタ生産方式は何を変えたのか。どうして長く続いているのか。もっと言えば、それほど優れた方式ならば自分の仕事にも取り入れたい。原稿を書くのと自動車を作ることは違う。けれども、どちらも同じモノ作りである。何かしら取り入れる点はあるはずだ。

「それならば現場の人に聞こう」ということでこの本の取材は始まりました。野地の好奇心探求心を原動力とするこの本には「70回に及ぶ日本とアメリカの工場見学」(あとがき)の成果がたっぷり盛り込まれています。「車体をボデーと呼ぶのはトヨタ独自の呼称で、同業他社ではボディと言う」など、現場に足を運ぶからこそ得られる野地の体験を読者も共有することができます。

 

3:魅力的なバイプレイヤーが縦横無尽ーー『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』(佐野眞一)


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戦後日本のありのままの姿を見ようとするとき、私の視野にはいつも二つの国土がせりあがってくる。一つは満州、一つは沖縄である。世界史的にも類を見ない日本高度経済成長とは、失われた満州を国内に取り戻す壮大な実験ではなかったか。

本書の底に流れる佐野眞一の思いです。満州に関して佐野は『阿片王 満州の夜と霧』『甘粕正彦 乱心の曠野』を著しました。

一方、他作品のために訪れた沖縄での取材成果などをもとに編んだのが本書です。書下ろしではなく、『月刊PLAYBOY』誌上における計33回の連載に加筆修正したものです。描く視点は無論、観光案内的ではありません。

盛り込まれた旺盛な守備範囲は「天皇・米軍・沖縄警察」「沖縄アンダーグラウンド」「沖縄の怪人・猛女・パワーエリート」「踊る琉球、歌う沖縄」「第二の“琉球処分”」という構成からうかがえるのではないでしょうか。

一つのテーマを追って行くと、次に書くべきテーマが南国の陽炎かげろうのように、向こうから自然に立ちのぼってきた。そのゆらめきに誘われるままに書いた、というより沖縄の力によって書かされたのが、この長編ルポである。

「おわりに」に書かれたこの、佐野の言葉になぞらえれば、余計な先入観を持たず、そのゆらめきに誘われるままに読むのが本書に対する正しい向き合い方ではないかと思います。

数多くの「沖縄本」と異なる本書の魅力は、優れたノンフィクションの定石どおり、膨大なインタビューを下敷きにしていることです。5つの切り口で構成された章立ての、それぞれに登場する極めて個性的な面々一人ひとりの特異な体験を丹念に引き出し、書き込んだ佐野だからこそ「だれにも書かれたくなかった」と自信をもっていえるのでしょう。

 

4:三島由紀夫自決の日、誰が何をしていたかーー『昭和45年11月25日』(中川右介)


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『松田聖子と中森明菜』『カラヤンとフルトヴェングラー』『十一代目團十郎と六代目歌右衛門』『モーツァルトとベートーヴェン』『江戸川乱歩と横溝正史』『阿久悠と松本隆』エトセトラ。

中川右介は、同時代に同じ世界で活躍した二人の代表的な人物を選び、彼らのなした業績や影響を紹介するばかりでなく、時代背景や社会情勢、風俗などにも丹念に目を配る克明な評論に定評があります。

そうした「VSもの」とは一線を画する、中川としては異質で実験的な著作が本書です。タイトルは三島由紀夫が自決した日。当時は無名であっても現在は名を知られるようになった120人がこの日、どこで何をしていたかを時系列で並べて構成されています。中川はあとがきで、

十一月二十五日の三島の行動については、すべて登場人物の書いたものを引用するかたちで記述し、三人称としては描かなかった。したがって、読者のみなさんが読んできたのは、誰かの眼を通じての三島由紀夫でしかない。三島由紀夫の実像は本書には登場しない。(中略)この本では、三島事件そのものを描くのではなく、三島事件に人々がどう反応したかを提示したかった

と書いています。

ちなみに、前出の佐野眞一については

隣のテーブルにいたサラリーマン風の中年男が、三島について、気の利いた台詞で批判したので、佐野は、訳のわからない激情にかられて、食ってかかった。この二十三歳の三島の愛読者だった青年は《天も裂けるような大事件なのに、世の中がふだん通り動いているのも我慢できなかった》のだ

と紹介されています。

ある衝撃的な事件が起きた時、同じ時間を過ごしていた人たちはどこで何をし、そのことをどのように受け止めていたのか。ノンフィクションの叙述について考えるきっかけを与えてくれる良書です。

 

5:時代の変化は3つの波で捉えよーー『変化の読み方』(柳田邦男)


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日本を代表するノンフィクション作家の一人、柳田邦男が49歳の時に書いたビジネス色の強い一冊です。

本書が世に出る時点で柳田はすでにノンフィクションの第一人者でした。NHKの社会部記者として数多くの事件・事故を取材した後、退社して執筆活動に専念。事故や災害、医療、技術、経済など、社会部経験を生かした幅広い分野で過去に学び、現在を分析し、未来を予測する示唆に富む作品を世に問うてきました。

そんな柳田が、少し肩の力を抜いて、現役のビジネスパーソン向けに「時代の変化をどう読み、未来を予測するか」に狙いを定めて書いたのが本書です。

柳田は時代変動を読む手がかりとして①百年単位の長波②十年単位の中波③一年ないしせいぜい五年単位の短波ーーの3つの波があるようだと指摘します。

言葉を変えると「文明の盛衰は長波」で見ると説明がつきやすく、景気の大変動には半世紀の周期性があると説きます。同様に「時代相を見る時は十年きざみの尺度で」と示唆。
長波の代表例として「モデルスキーの長波理論とコンドラチェフの長期波動」、中波の代表例として「ジュグラーの波」を紹介しています。

短期変動に関する理論や、あるいは周期性といったものはありませんが、時代の変化のめまぐるしい現代では、一年ないし二年で様変わりという事態もしばしばおこっています。アメリカでは、大統領が四年で交代するために、十年単位の時代変化を待たずに、時代相が短期間に大きく変わることがしばしばあります。

という記述には説得力があります。

柳田は「時代変化の長波、中波、短波の三つの波が複雑に重なり合い、影響し合って、時代の顔を変化させていく」と提唱。過去に起こった数々の出来事と波線のグラフに重ね合わせて持論を裏付けています。

 

おわりに

数多くのノンフィクション作品を世に問うた佐野眞一は、ノンフィクションを「固有名詞と動詞の文芸である」と例えます(『私の体験的ノンフィクション術』)。
佐野のノンフィクション論は「形容詞や副詞の修辞句は『腐る』が、固有名詞と動詞は人間がこの世に存在する限り、『腐らない』。いいかえれば、固有名詞と動詞こそが、人類の『基本動作』であり、『歴史』である」ーーと続きます。ノンフィクションは「足で書く」文芸とも。
ひたすら事実を追い、時にその背景を探り、読者に分かりやすく伝える、という使命は新聞と同じです。しかし、単なる事実の報告でなく、そこに、筆者の思いを映し、同時代を後世に伝える「文芸」である点が、ノンフィクションの存在意義ではないでしょうか。

初出:P+D MAGAZINE(2020/10/07)

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