【『赤い蝋燭と人魚』ほか】児童文学の父・小川未明のおすすめ作品

「児童文学の父」「日本のアンデルセン」とも呼ばれ、愛され続けている童話作家・小川未明。未明の童話は、陰りのあるモチーフと美しく幻想的な文章を特徴としています。今回は『赤い蝋燭と人魚』や『野ばら』などを始め、未明のおすすめの童話を4作品ご紹介します。

「日本児童文学の父」と呼ばれた児童文学作家、小川未明。『赤い蝋燭と人魚』や『野ばら』などの作品は、子どもの頃に絵本を読んだことがあるという方も多いのではないでしょうか。未明の書く童話には、美しく幻想的でありながら、単純な勧善懲悪に終止しない、奥行きのある作品が多く見られます。

1882年生まれの小川未明は、今年で生誕140周年を迎えます。今回は、そんな小川未明のおすすめの児童文学作品を4作品紹介します。

『赤い蝋燭と人魚』


出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4039651006/

『赤い蝋燭と人魚』は、小川未明が1921年に発表した童話です。人間のエゴイズムや人魚の悲しみ、憎しみを陰りのある幻想的なトーンで描いた本作は、未明の代表作としてよく知られています。

“人魚は、南の方の海にばかり棲んでいるのではありません。北の海にも棲んでいたのであります。”

という非常に印象的な1行で、物語は始まります。冷たく暗い北の海に暮らす女の人魚が、「人間の住んでいる町は美しい」「人間は、この世界のうちで一番やさしい生き物だ」と聞き、せめて自分の子どもにはにぎやかな明るい場所で育ってほしいという思いから、人間の住む陸に子どもを産み落とします。

人魚の子どもは海のそばの町で蝋燭屋を営む老夫婦に拾われ、育てられます。やがて美しい娘となった人魚は、誰に教えられたわけでもないのに、商品の赤い蝋燭に鮮やかな海の絵を描くようになりました。

“娘は、赤い絵具で、白い蝋燭に、魚や、貝や、また海草のようなものを産れつき誰にも習ったのでないが上手に描きました。お爺さんは、それを見るとびっくりいたしました。誰でも、その絵を見ると、蝋燭がほしくなるように、その絵には、不思議な力と美しさとがこもっていたのであります。”

人魚の住む町では、その蝋燭を山の上のお宮にあげ、燃えさしを身に着けて海に出ると決して海難事故に遭わないという評判が立ち、いつしか蝋燭屋は大繁盛となりました。

しかしある日、どこからか娘が人魚であるという噂を聞きつけ、南の国から香具師やしがやってきます。香具師は大金を払うので娘を譲ってほしいと言って老夫婦を説得し、やさしかったおじいさんとお婆さんを心変わりさせてしまうのです。売られることとなった娘は大変に悲しみ、描きかけの蝋燭の絵をすべて赤く塗りつぶします。海辺の町はその後、まるで娘と人魚の母親の絶望と憎しみがそうさせたかのように、悲劇に見舞われてしまうのでした。

子ども向けの童話らしからぬ陰鬱さを持つ作品ですが、本作は未明の童話の中でも特に人気が高く、さまざまな絵本作家やイラストレーターによって新装版が発表され続けています。特に、イラストレーター・酒井駒子が挿画を手がけた1冊や、画家・いわさきちひろによる1冊などはベストセラーとして、現在でも多くの人から愛され続けています。


いわさきちひろ挿画『赤い蝋燭と人魚』/出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4494021172/

『野ばら』


出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4494021253/

『野ばら』は、1920年に未明が発表した童話です。大きな国とその隣国の小さな国の兵士たちのささやかな交流を描いた、切なくも力強いメッセージを持つ物語です。

都から遠く離れた国境で、それぞれの国から派遣されたただ一人ずつの兵士たちが番人をしていました。大きな国の兵士は老人で、小さな国の兵士は青年です。国境近くはなかなか通りかかる人もおらず、暇を持て余していたふたりは、いつしか仲良しになっていました。

“ちょうど、国境のところには、だれが植えたということもなく、一株の野ばらがしげっていました。その花には、朝早くからみつばちが飛んできて集まっていました。その快い羽音が、まだ二人の眠っているうちから、夢心地に耳に聞きこえました。
「どれ、もう起きようか。あんなにみつばちがきている。」と、二人は申し合わせたように起きました。そして外へ出ると、はたして、太陽は木のこずえの上に元気よく輝いていました。”

国境に茂っている野ばらを愛でながら、ふたりの兵士は会話をしたり将棋をさしたりと、交流を深めていきました。しかしあるとき、ふたつの国は“なにかの利益問題”をきっかけに、戦争を始めてしまいます。突如、敵・味方の間柄になった老人と青年は戸惑いますが、老人を殺すことはどうしてもできないと考えた青年は、「戦争が行われているずっと北の方へ行って戦います」と言い残して、国境を去ります。物語は、月日が経ち、国境に咲いた野ばらが不自然に枯れるところで幕を下ろします。

未明は、“戦争”を、老人と青年の間に芽生えた友情を無惨にも断ち切る絶対悪として描いています。反戦を訴える未明の態度は一貫しており、本作の発表から10年後には、いずれ起きるであろう第二次世界大戦を憂い、随筆の中でこんな言葉も残しています。

“戦争! それは、決して空想でない。しかも、いまの少年達にとっては、これを空想として考えることができない程、現実の問題として、真剣に迫りつつあることです。(中略)
朝に、晩に、寒い風にも当てないようにして、育てて来た子供を機関銃の前に、どく瓦斯がすの中に、晒すことに対して、ただこれを不可抗力の運命と視して考えずにいられようか? 互に、罪もなく、怨みもなく、しかも殺し合って死ななければならぬ子供等自身の立場に立ちて、人生問題として考えるばかりにとどまらない。”

未明にとって、戦争は受け入れざるをえない“宿命”ではなく、あくまで国や政治から強いられるものであり、抵抗すべきものでした。本作は、そんな未明の思想が寓話的な形でよく表れた1作です。

『金の輪』


出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4101100012/

『金の輪』は、未明が1919年に発表した短い童話です。本作は、暗く悲しげな作品が多い未明の童話の中でも、特に未明らしい死生観を感じさせる、“少年の死”を扱った1作です。

ストーリーは、長く病気で臥せっていた太郎という少年が、道端で奇妙な“金の輪”を回す少年に出会うというもの。

“かなたを見ますと、往来の上をひとりの少年が、輪をまわしながら、走ってきました。そして、その輪は金色に光っていました。太郎は目を見はりました。かつてこんなに美しく光る輪を見なかったからであります。しかも、少年のまわしてくる金の輪は二つで、それがたがいにふれあって、よい音色をたてるのであります。太郎はかつてこんなに手ぎわよく輪をまわす少年を見たことがありません。いったいだれだろうと思って、かなたの往来を走って行く少年の顔をながめましたが、まったく見おぼえのない少年でありました。”

太郎はその後も別の日の同じ時刻に、その“金の輪”の少年を家の近くで見かけます。太郎は少年の懐かしげな微笑みが気にかかり、友達になってくれないだろうか──と考え、その晩、夢の中で少年に出会います。

“太郎は、少年と友だちになって、自分は少年から金の輪を一つわけてもらって、往来の上をふたりでどこまでも走って行く夢を見ました。そして、いつしかふたりは、赤い夕やけ空の中にはいってしまった夢をみました。”

しかし、太郎はこの夢を見たあとから再び熱を出し、数日後に亡くなってしまうのでした。

非常にシンプルな物語でありながら、幻想的で謎めいている本作。少年が太郎に渡す“金の輪”は輪廻転生の象徴であり、ひとつの輪を手渡された太郎は、来世への新しい命を手に入れたとも解釈できそうです。

未明は作品の中で子どもの死をたびたび描きましたが、未明自身の長男も、病気で早逝してしまったことが知られています。本作は、未明から亡くなった長男への鎮魂歌でもあったようです。

『負傷した線路と月』


出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4101100012/

『負傷した線路と月』は、そのタイトル通り、機関車に轢かれて負傷してしまった線路と、負傷の責任が誰にあるのかを解き明かそうとする月を巡る作品です。

あるとき、重い荷物を積み込んだ機関車に踏みつけられたレールが傷つき、痛みに耐えられず泣き出してしまいます。毎日、重い機関車に頭の上を踏まれる自分ほど不運なものがあるだろうか──と考えたレールは、ある晩に自分を照らしてきた月に対し、機関車の仕打ちが許せないのだと訴えます。それを聞いた月は、レールを踏みつけた“冷酷”な機関車の番号を記憶し、不心得をさとすと約束します。

さまざまな土地を探し続け、ある晩にようやく目的の機関車を見つけた月は、その機関車に話しかけます。すると、機関車は意外なことを語り始めます。

“「私はどんなに、疲れているかしれません。毎日、毎日、遠い道を走らせられるのです。そして昨日は、いままでにない重い荷をつけさせられていたので、一つの車輪を痛めてしまいました。私は、あの重い荷物と車室の中で、そんなことには無頓着に、笑ったり、話したりしていた人間が、憎らしくてしかたがありません……。」と訴えたのであります。
「そんなら、おまえも、体をいためたのか?」と、月は問いました。
「そうです。どこかでレールとすれ合って、一つの車輪を傷つけました。」と、汽罐車は答えました。
月は、それを聞くと、だれが悪いということができなかった。”

機関車を叱ることができなかった月は、機関車の上に乗せられていたという重い荷物を探し出し、今度は荷物が入った箱に語りかけます。すると、箱は機関車と同じように陰鬱な調子で、

“私たちは、どこへやられるのかわかりません。故郷を出てから、長い間汽車に載せられました。そして、いまこの広々とした海の上をあてもなく漂っているのをみると心細くなるのであります。”

と言うのでした。「いったい誰が悪いのだろう、人間が悪いのだろうか」と考えた月が街で見つけた家の中では、ちょうどかわいらしい赤ん坊が目を覚まし、きれいな月を見て笑っているところでした。

本作から読み取ることができるのは、加害や被害、そして支配や非支配というものの割り切れなさです。擬人化された登場キャラクターたちの訴えを通じ、読者は、自分が誰かに傷つけられているつもりでも、実際には誰かを傷つけてしまっている可能性に思い当たるはずです。暗喩的な作品が多い未明の童話の中では、本作はストレートに教訓的な1作と言えます。しかし、説教臭い読後感ではなく、美しい余韻を残す作品でもあります。

おわりに

今回ご紹介した作品からも、未明の童話には“子どもが死ぬ”、“町が滅ぶ”といったネガティブなモチーフが多く見られることがお分かりいただけるはずです。こういった未明の物語が持つ暗さは、第二次世界大戦後の1950年代、童話としてふさわしくないと糾弾され、未明は“古い児童文学作家”として否定されるという苦渋の晩年を送りました。

しかし、誕生から100年あまりの時を経ていま未明の童話を読んでみると、その作品が美しく幻想的でありながらも、同時に、世相を反映した非常に現実的で骨太なものであることが伝わると思います。

暗く、ときにはトラウマにもなるような未明の童話のモチーフは、小さな子どもに読ませるのには抵抗があるという方もいるかもしれません。大人だからこそ楽しめる作品として、いま改めて未明の作品に手を伸ばしてみてはいかがでしょうか。

初出:P+D MAGAZINE(2022/05/26)

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