恋することを忘れたあなたに『時雨の記』『はつ恋』など心に染みる「大人の恋愛小説」5選

家庭や仕事もひと段落したミドル・シニア世代の大人たち。恋には縁遠くなったと思っていても、心のどこかで身をやつすような恋愛を求めている人もいるのではないでしょうか。そんな大人世代が楽しめる上質な恋愛小説5作品を紹介します。

女優・岸 惠子が放つ大人の恋物語 ―― 『わりなき恋』(岸 惠子)


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『わりなき恋』は、世界を舞台に成熟した男女が織りなす恋物語です。歳を重ね確立された自己と相手を愛する気持ちとの狭間で葛藤する様子が、初恋のようなみずみずしさを持って描かれています。

国際的なドキュメンタリー作家の伊奈笙子は、パリに向かう飛行機のファーストクラスで大企業のマネジメントをしている九鬼兼太とたまたま席が隣り合わせになります。世界中を飛び回る2人、69歳の笙子と58歳の九鬼は10歳以上も年が離れていますが、笙子が1968年にプラハで遭遇した自由化運動「プラハの春」の思い出話をきっかけに意気投合します。

「ぼくももうじき還暦です」
胸中を見透かされて笙子も笑った。
「私、年齢に関しては、端数は切り捨て、そのうえ勝手に七掛けの人生と決めていま
すので、厚かましいことに、今も女盛り真っただ中のつもりです」
   こぼれたほほ笑みに女が咲き、その花びらの陰に彼女特有の鎮まったさびしさがあ
った。それは幼いときからまとっている孤独というもう一枚の皮膚でもあった。
「すばらしい方とお目にかかりました」
男の笑顔にまた小さい笑窪が浮かんだ。

フライト後、パリのシャルル・ド・ゴール空港で別れた2人でしたが、ブルターニュでの仕事を終えた笙子に九鬼から突然の電話が。そしてふたりは再会を果たすことになります。

笙子はパリとプラハに起こった革命が終焉を迎えた3年目の暮れ、フランス人の夫を飛行機事故で亡くしています。その後、愛娘・テッサの子育てや仕事に奮闘してきた笙子ですが、気がつけば70歳目前になっていました。そして、人生の終焉に出会った九鬼の強引なまでの誘いに戸惑いながらも、惹かれていくのでした。いっぽう九鬼もファッショナブルに世界で活躍する笙子に魅了されます。妻子や孫もいる九鬼でしたが、少年のようなまっすぐなアプローチで笙子に迫り、2人はパリ、横浜などで逢瀬を重ねていきます。笙子は大切な友人で女優の桐生砂丘子に九鬼のことを打ち明けますが、こう諭されるのでした。

「笙子の好きな清少納言のひいおじいさんに清原きよはらのふ養父かやぶという歌人がいて、古今和歌
集のなかで、こんな歌をんでいるの。
   心をぞわりとなきものとおもひぬる 見るものからや恋しかるべき
   こうして逢えているのにまだ恋しさが募る、というような意味だと思うの。『わり
なき恋』をわりと書くのは当て字だけれど……理屈や分別を超えて、どうしようもない
恋。どうにもならない恋。苦しくて耐えがたい焔のような恋のことだと思う。笙子、
覚悟ある?」

砂丘子の忠告を聞いてもときめく心を抑えきれない笙子でしたが、気持ちとは裏腹に女としての身体に衰えを感じ不安になります。この恋を、そして九鬼を男として受け入れられるのかと悩む笙子でした。
いっぽう九鬼も仕事でも自信に満ち溢れていて、女の扱いなど何をするにも卒がない男性でしたが、妻についてある秘密を抱えています。笙子と九鬼、甘い関係の2人に現実が迫ってきますが、大人たちのどうにもならない恋、「わりなき恋」の行方はどうなるのでしょうか。

世界の社会情勢・背景、芸術、ファッション、グルメ、そして映画のワンシーンのような情景描写など、日仏で活躍した女優・岸ならではのエスプリが生きています。大人の愛と性を鮮烈に描いた作品で身も心も熱くなれるでしょう。

これは憧れなのか恋なのか? ――  『ミス・サンシャイン』(吉田修一)


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第15回山本周五郎賞、第127回芥川賞など多数の賞を受賞し、2016年からは芥川賞選考委員も務める吉田修一による恋愛小説。“年の差恋愛”とは一概に言えない、深い愛がそこには流れています。

大学院生の岡田一心いっしんは、ゼミの五十嵐教授からあるバイトをすすめられます。それは「鈴さん」こと、往年の大女優・和楽京子の家の整理を手伝うこと。一心が初めて鈴さん(本名:石田鈴)が住むヴィンテージマンションに訪れたとき、梅香る大きな中庭を持つ気品ある佇まいに圧倒されます。

ポーチの門扉を開けてチャイムを押そうとすると、先に玄関ドアが開いた。
「壊れてるのよ、そのチャイム」
顔を出したその人は、当然だがあの和楽京子である。
『隠密道中 月影一座』のように銀杏いちょう返しのかつらではないし、ほとんどノーメイクに近い
その顔はたった今、風呂から上がったように血色がよく、印象より少しだけ薄くなっている
髪を一つにまとめて、なにより薄手のセーターを柔らかく盛り上げているふくよかな胸元が、
とても八十代の女性とは思えないほどなまめかしい。

ハリウッド映画に進出するとき、アメリカで女優・和楽京子についたキャッチフレーズが「ミス・サンシャイン」。その名さながら80代とは思えぬ美しさで、鈴さんは光輝いています。包み込むような気さくな人柄もあって、一心は彼女に惹き寄せられていきます。

妹の死の記憶や切ない恋に苦しむ一心にとって、鈴さんの存在は次第に大きくなります。偶然にも長崎出身のふたりは、故郷が被爆地という痛みの歴史も共有しているのです。これは憧れなのか恋なのか、それとも……。
シニア女性と孫ほど年の離れた主人公との静かなりとも温かい交流が、読者の胸を打つ傑作です。

 40代以上の読者や映画ファンには、往年の映画会社、監督や俳優が想像され、違った楽しみも加わるでしょう。鈴さんの学生時代の親友への思い、主人公・一心の亡き妹への気持ちなどが心に響く、単なる年の差恋愛だけでは計れない深い愛が描かれています。

リアル感に満ちた恋の短編集――『さくら、さくら おとなが恋して』(林真理子)


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直木賞作家の林真理子による大人たちの恋愛ショートストーリーが12編収められています。分別がついた恰好いい大人とはどこか言えない登場人物たちもいて、共感が持てる短編集です。

  「だって私は特別な、選ばれた女だもの」
会社を経営する女として、普段は謙虚さをいつも装っている祥子だ。イヤリングを
つけたり、スカーフに気をとられるふりをするように、祥子はことさらに自分が運が
いい女のように信じているふりをしそれを言いたてる。けれどもそんなことはすべて
嘘にきまっている。輸入もののスーツや、一流ホテルのロビーがこれほど似合う女が
他にいるだろうか。
  「だから私は、人の出来ないような恋をしている」
(中略)
  「あの人のことを考えるだけで、私は胸がいっぱいになる。まるで十代の小娘みたい
にだ」

(第一編「おとなが恋して」より引用)

                       
会社を経営する祥子は41歳バツイチで独身。半年前に再会し夕食デートを続ける妻子持ちの石井との待ち合わせの間、ブティックで秋色の高価なスカーフを買います。週2回ジムで鍛えている祥子は、ウエストをしぼった流行のスーツも着こなす大人の女性。身なりにかまわない40代女性たちが多くいるのに、自分は現役をキープしている特別な女だと自信を持っています。そして、選ばれた女とも……。

 ですが水曜日など平日の夕食をともにする恋人・石井は、それ以上のことはしてくれません。もちろん週末の時間もくれませんが、祥子の心はなぜか満たされています。恋愛の本当の醍醐味とは?

―――この第一編の「おとなが恋して」を含め、後頭部が禿げかかっている38歳のヤモメを紹介されたハイミス女、不倫していた若い女に逃げられた妻子持ち男など、ほろ苦く切なく、そして甘酸っぱい大人の恋愛ストーリー12編が収録。
「これからこの男女はどうなるのだろう?」と思わせるような短編ストーリーが、メリーゴーランドのように次々と現われます。分別あるはずの大人の男女が、恋を前にして嫉妬深かったり、ぶざまだったり未練たらしかったりともがいているさまを、林らしい軽妙さで表現。短編なので一編ずつ読めるのも、忙しい方におすすめです。

女性初の芥川賞受賞作家による本格的恋愛小説――『時雨の記』(中里恒子)


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女性として初めて芥川賞を受賞した中里恒子による大人の恋愛を描いた上質な長編小説です。1998年には小説を元にして映画化もされました。巻末には河上徹太郎、宇野千代、江藤淳という豪華な顔ぶれによる寄稿文や古屋健三による解説のほか、阿部昭による「中里恒子 案内」や興味深い作家自身の年譜も収録されています。

 大磯の山沿いの屋敷に住まう40代の未亡人・堀川多江と会社社長で50代の壬生孝之助との秘めた恋の物語。壬生は独身時代に会社関係の社長の通夜で、多江と初めて出会います。受付で雑用を手伝っている多江が気になり目で追っていた壬生ですが、ほどなく多江が社長の身内・三男の若妻と知り興味がなくなります。20年の時を経て、壬生は知人の祝宴で多江と再会することに。

 

 しかし、第一印象というものは、おそろしい。わたしは、堀川多江が、四十すぎて、
その間にいろいろの出来ごとがあって、身の上が変わっていることなど、思いもよらずに、
昔のままの、ろうのような頬が、ふっくらしているのを見たとき、はっと思った。
「あのひとだ、あのひとに違いない、」

人生の後期に最良の相手に出会ってしまった2人は、心の交流を重ねていきます。心臓病を抱えながらも仕事に精を出す壬生は、死ぬときは妻ではなく多江の元にいたいと切に願います。多江も夫亡き
後、お茶の師匠としてひとりで慎ましく暮らしていますが、男として頼れる存在になっていく壬生を手放したくありません。
 

  ひとを好きになるのに、なんとかかんとかと、理屈をつけようとする内心の乱れは、
多江の防ぎようもないことでした。
  三月ほどは、七日に一度、三日に一度、きのうもきょうもと、催しごとに誘われたり
する、なんとなく舟の風待ちのような、潮どきを見るに似たう日が、こともなく過ぎ
ました。それ以上は、踏み入ったら最後……

多江の佇まい、暮らす日本家屋、生活を取り巻く料理、茶器、掛け軸など日本文化の伝統美が子細に描写され、甘美ささえ感じられます。壬生と多江がそれらを話題に会話する様子は、まるで長年連れ
添った夫婦のようです。

一線を超えずとも互いに心底惚れ合って、大切に思い合っている壬生と多江。死の気配に怯えながらも2人の時間に喜びを感じる壬生には、多江に内緒ですすめているサプライズがありました。果たして2人の恋の行方は……。「真の愛とは何か」と考えさせられる作品です。
物語の視点が多江と壬生とに随所で変わり、切ない男女の思いがひしひしと伝わってきます。男が男らしく、女が女らしくといった古き良き時代の日本の大人の恋愛物語に、現代が忘れている奥ゆかしい恋心を思い起こさせる日本文学の名作です。

身も心も触れ合いたくなる恋――『はつ恋』(村山由佳)


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1993年に『天使の卵――エンジェルス・エッグ』で小説すばる新人賞を受賞しデビューし、第129回直木賞など各賞を受賞している人気作家・村山由佳が2018年に発表した心温まる恋愛小説です。日本の四季折々の描写を含め、村山ワールドを満喫できる作品。

 南房総の海沿いの町で古い日本家屋に猫と暮らす小説家のハナ。2度の離婚を経て40代になっていました。人生の後半をひとりで暮らしていこうと思っていた矢先に巡り合ったのが、幼少期大阪で隣家に住み、姉と弟のように過ごしたトキヲでした。一人親方として働くトキヲも2度の離婚を経て、大阪で19歳の娘と高齢の母と暮らしています。千葉と大阪と離れて暮らすハナとトキヲは仕事の合間を縫っては、身も心も通わせていきます。

トキヲの首から腕をそっとほどき、ハナは、古くて新しい恋人の目の奥を覗き込む。
  「ねえ、ほんとに初めてなんだよ、私」
  「何がや」
  「こんなふうに、何もかも安心して預けられるのは、ってこと。親や友だちにも、
本音でぶつかったためしはなかった。だけどトキヲにだけは、どんな自分を見せても
大丈夫って思える。どうしてかな。トキヲが私を本気で嫌いになることなんかある
はずないっていう、おかしな確信があるの」
  ふっと目尻にしわを寄せた彼が、ハナの身体を抱きかかえ、抱き寄せる。

挫折感、喪失感を味わってきたふたりは、幼馴染としての思い出だけではなく、大人になったお互いを愛し、人生の後半を丁寧に生きること、大切にすることに喜びを感じます。

  若い頃は、四十代や五十代なんてすっかり枯れてしまうものだと思っていた。
  そんなことはなかった。徹夜がつらくなったり、膝が痛くなったり、小さな字が
見えにくくなったりはしたけれど、頭の中ばかりはそれほど変わるものじゃない。
愛しい誰かを想う時の、心臓のまわりがきゅっと窮屈になるような、甘くて少し凶
暴な感覚もそのままだ。そのままだということが、うれしい。

日本ならではの季節のうつろい、ハナが丁寧に作る料理、純粋で心やさしいトキヲの大阪弁など、その気取らないふたりの日常の温かさが伝わってきます。男性ならハナに、女性ならトキヲに恋をしてしまうような心に染みる恋物語です。
それぞれの高齢の親との交流も丁寧に描かれ、親の介護に悩んでいる世代にも共感を呼びます。四季折々の花や手料理の描写が繊細で美しく、ハナを通して著述業の仕事が垣間見ることができて、村山自身の創作の苦労と楽しさも感じられる作品になっています。

おわりに

明治生まれの文豪・中里恒子や昭和生まれの人気作家たちと幅広い世代による大人の恋愛小説を紹介しました。全作品から恋するエネルギーを感じ取ることができます。人生に潤いが欲しくなったとき、手にとってみてはいかがでしょうか。必ずまた、恋をしたくなるでしょう。

初出:P+D MAGAZINE(2022/07/21)

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