論語をギャル語に超訳!孔子の教えをわかりやすく学ぼう。

孔子と、彼の高弟の言葉を記したと言われる『論語』。どこかで耳にしたことがあるものの、難しい……と感じる方に向け、『論語』をギャル語に超訳してみました。

誰もが一度、学生の頃に古典の授業で触れているであろう『論語』

『論語』は『大学』、『中庸』、『孟子』と合わせて儒学の基本となる古代中国の大古典“四書”で、思想家・哲学家である孔子とその弟子たちの語録をまとめたもの。最晩年の孔子のもとに集まった弟子は、なんと3,000人にものぼると言われています。

ただ、『論語』について、あなたは自信を持って「理解している」と答えられるでしょうか。

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上司が講演やスピーチの場で『論語』を引用していることに対し、(なんとなく良いことを言ってるみたいだぞ)と、わかっているように装っている方も多いかもしれません。『論語』に「小難しいもの」、「偉い人がよく引き合いに出すもの」というイメージを持っている人に対し、P+D MAGAZINE編集部はこう提案します。

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略語や意味を簡略化したギャル語は、物事の本質を鋭く捉えた言葉とも言えます。そんなギャル語で大まかな意味をつかむことができれば、『論語』の理解も深まるでしょう。

今回は『論語』の内容を解説しながら、ギャル語で要約を行います。

 

1.圧倒的な師匠の姿。

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孔子が晩年、人生を振り返った言葉にはこうあります。

子 曰く
吾れ十有五にして学に志ざす
三十にして立つ
四十にして惑わず
五十にして天命を知る
六十にして耳にしたが
七十にして心の欲するところに従えども、わくえず

為政いせい」第二篇 第四句より

【現代語訳】
先生は仰った。「私は十五歳のときに専門な知識を求め、学問を志した。三十歳にして精神的に立場を確立し、四十歳で迷うことがなくなった。五十歳で天命を理解し、六十歳になったら人の意見を素直に聞けるようになった。七十歳でやっと、自分の思うように行動をしても、道理を踏み外すことがなくなった。そんな境地に至ったのだ。」と。

孔子は15歳にして自分の求める知識を見定めた後、順調に成長を続けます。一方でどんなに強い決心があったとしても、私たちは不意に「このままで本当にいいのだろうか?」と不安になる瞬間もあるのではないでしょうか。

孔子は40歳にしてその迷いから解放されたことを明かしています。また、70歳で悟りの境地に至った孔子だからこそ、3,000人もの弟子に尊敬されていたのでしょう。

そんな孔子の生涯を、ギャル語で表すとこうなります。

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格が違う、他を圧倒するほどすごい……という意味のギャル語、「レベチ」。これは「レベルが違う」を略したもので、「○○ちゃんの可愛さはレベチ」、「レベチで美味しい」という形で使われています。

また、「そマ?」とは、「それってマジ(本気)?」の略。驚いたり、信じられないような事実を目の当たりにしたときに多く用いられています。

弟子たちがどんなに努力を重ねたとしても、たどり着けないであろう人生の境地。70年という月日で体得した孔子は、まさに“レベルが違う”人物。孔子の生きた時代と比べ、現代はより長い時間を生きることも不可能ではなくなりました。しかし惰性で長い月日を費やすのではなく、孔子のように“レベチ”と思えるような生き方をしたいですね。

 

2.感謝を忘れない。

感謝

孔子は幼くして父を亡くしていたため、母によって育てられました。この母にまつわる教えも、多く残されています。

そんな母のもとで育った孔子は、親についてどのようにするべきだと考えていたのでしょうか。

孔子曰く、君子は敬せざること無し、身を敬するを大と為す。身は親の枝なり、敢て敬せざらんや。其の身を敬することあたははざるは、是れ其の親をそこなふなり。其の親を傷ふは、是れ其の本を傷ふなり。其の本を傷へば、枝従って亡ぶ、と。聖模せいぼを仰ぎ、賢範をしたひて、此の篇を述べ、以て蒙士もうしおしふ。

「敬身」第三篇 第百三十九句より

【現代語訳】
先生は仰った。立派な人はどんなことにも感謝の念を忘れないが、それは自分自身も例外ではない。自分自身は、いわば親という大幹から生えた小枝である。小枝である自分自身を大切にしないのは、その幹にあたる親を傷つけることでもある。親を傷つけることは、小枝である自分をないがしろにすることでもあり、やがては枯れてしまう。自分自身を大切にしなければならないのは、こういった理由である。」と。

「子は親の背中を見て育つ」という言葉もあるように、私たちの人となりには、親が大きく関わっています。孔子も巫女であった母の日常生活を観察するうち、幼くして葬祭の知識を身につけたほど賢い子どもだったと言われています。 

孔子は自身を“小枝”に、自分の人格を形成する親を“幹”にたとえました。「自分を慈しむことは、結果として親を大切にすることも同じ」、「自分に敬意を払うと、親にも感謝の気持ちが伝わる」と説いた孔子。その考えをギャル語に訳すと、こうなります。

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もともと、ギャルは感謝の意を示す際に「ありがとうございます。」を略す形で「あざ。」というギャル語を使っていました。ここからあえて句点を「まる」を読み、「あざまる」となったのです。

やがて「あざまる」はさらなる派生を遂げ、居酒屋チェーンの店名の一部「水産」が加わり、「あざまる水産」となりました。2018年にTwitterでトレンド入りも果たしたギャル語「やばたにえん」(意味:やばい)のように、ギャル語は既存の企業名をアレンジする傾向があります。

そして「生類わかりみの令」は、「生類憐みの令」と「わかりみ」(「わかる」の名詞化)を組み合わせたギャル語。このように異なる名詞を組み合わせる言葉は、古くから若い人々の間で親しまれており、江戸時代の若者の間には「恐れ入谷の鬼子母神」(「恐れ入りやした」と地名の「入谷」を掛け、さらに同地にある「鬼子母神」と続けた)なんて言葉も流行していたほど。いつの時代においてもギャル語は、意味を簡潔にとらえつつ、言葉遊びのセンスがうかがえるものでもあるのですね。

多くの人は、無意識のうちに「両親を大切にしましょう」と幼い頃より教えられているもの。ときに衝突をしながらも、そんな思いは誰もが「当たり前」、「生類わかりみの令」として抱いているかもしれません。

「今まで育ててもらった恩返しをしよう」と考えるのではなく、立派に生きている様子を見せること、感謝の気持ちを伝えることも立派な親孝行。孔子の教えの通り、親と自分、両方を大切にするような生き方を心がけてはいかがでしょうか。

 

3.有言実行

「君子」(立派な人)とは、一体どんな人なのか。孔子は「君子」について、あらゆる条件を弟子たちに伝えます。

君子は言に訥にして行ないに敏ならんと欲す”

『里仁』第四篇 第二十四句より

【現代語訳】
立派な人は、発言が控えめであっても、行動を機敏にしたいと思うものだ。

また、こうも言っています。

子貢しこう君子を問う。子のたまわく、先ず行う、其のことばは、しかのちに之に従う。

「為政」第二篇 第二十九句より

【現代語訳】
子貢が「立派な人とは、どんな人なのでしょう」と先生に尋ねた。先生は「まずは発言する前に行動し、その後で初めて発言することだ」と答えた。

孔子は常々、「不言実行こそが正しい」と弟子たちに述べていました。特に弟子のひとり、子貢しこうは口が上手い人物でもあったため、「雄弁にあれこれ語るよりも先に、まずは行動に移すことが君子だぞ」と釘を刺す意味もあったのでしょう。

子貢のように、口の上手い人はどこにでもいます。ただ、そんな人たちは、実際に行動に起こさないことをそれらしい理屈で納得させようとする共通点があります。「まだ準備ができていないから」、「明日から頑張るから」と言い訳ばかり達者になるのではなく、とにかく行動に移すことこそが君子的であると孔子は説いているのです。

そんな孔子の教えは、ギャル語だとこうなります。

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「不言実行」は、いわば思いついたらすぐに行動を起こす、「フットワークの軽さ」(フッ軽)にもつながります。そしてそんな人は物事に対して柔軟性があり、突如としてチャンスの場面が舞い込んだとしても即座に行動へ移せるでしょう。フットワークが軽い人は、人望もチャンスも引き寄せます。逆に口だけで終わってしまうのは、ギャル語でいうところの「テンサゲ」(テンションが下がる)。孔子の思う「君子」にも近づくためにも、フッ軽でいることが重要です。

 

おわりに

今もなお、多くの人にとって人生の指標となっている『論語』。その解釈は広く、「このように読まなければいけない」ということもありません。そのため、自分なりの解釈で読める、古くからの知恵が学べる良いものでもあるのです。

「難しそう」と苦手意識を持っていた方も、これを機に『論語』を読んでみてはいかがでしょうか。

初出:P+D MAGAZINE(2018/09/10)

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