【『破局』で芥川賞受賞】小説家・遠野遥の作品世界

社会観や倫理観がどこかずれている主人公のキャンパスライフを描いた『破局』で、第163回芥川賞を受賞した遠野遥。デビュー作『改良』と『破局』を中心に、遠野遥の作品世界の魅力に迫ります。

短編小説『破局』で、高山羽根子とともに第163回芥川賞を受賞した遠野遥。2019年に『改良』で華々しいデビューを飾り、発表作はまだわずか2作品でありながら、その異質かつ唯一無二の文体で大きな注目を浴びています。

今回は、『破局』『改良』の2作品を中心に、遠野遥の作品世界の魅力と各作品の読みどころをご紹介します。

好青年な「私」の、どこか奇妙なキャンパスライフ──芥川賞受賞作『破局』


出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4309029051/

芥川賞受賞作『破局』は、2020年に発表された、遠野遥にとって2作目の短編小説です。一見、有意義で充実したキャンパスライフを送る「私」(陽介)のどこか歪な主観を、一人称の視点で描く作品です。

「私」は有名私大に通い公務員を目指しつつ、母校の高校のラグビー部のコーチも務めている青年。政治家を目指す麻衣子という恋人とも順調に交際し、筋トレを趣味にしている「私」は、非の打ち所のない大学生活を送っているかのように見えます。

「私」は誰とでも自然にコミュニケーションをとることができる好青年なのですが、よくよく読むと、その社会観や倫理観はどこか奇妙です。たとえば、ラグビー部の顧問である佐々木の家で、「私」が食事を振る舞ってもらうシーン。

私は肉を食べ、もやしも口に入れた。それから米も食った。肉だけ食っていられたら幸せだが、肉だけで腹を満たすのはマナーに反する気がした。

「私」は“マナーに反する”という理由で、肉だけではなくもやしと米も口に入れます。ユーモラスな場面ですが、このシーンに象徴されるように、「私」の行動には“マナーに則っているかどうか”が大きく影響しており、逆に、社会規範に関係のないできごとやものごとには、ほとんど関心を寄せようとしません

たとえば、持っている絵本のページが折れてしまって泣いている子どもを連れた人と交差点ですれ違っても、

子供は泣き止まず、「本が、本が」と叫び続けた。子供はなぜか、最初からずっと私の目を見ていた。信号が変わっていたから、私はそれ以上彼らを見なくてよかった。

と、「私」は“信号が変わった”ことを機に、ごく自然に視線をそらします。「私」にとって、視界に入らないできごとはそのまま、自分とは無関係なことなのです。「私」は自分の周囲や社会で起きているできごとの一つひとつを、犯罪かどうか、マナー違反をしていないかどうか、効率がよいかどうか──といったものさしでしか捉えず、共感能力が大きく欠けている人物として描写されています。

そんな「私」の順調な大学生活の歯車は、あかりというもうひとりの女性との関係が深まっていくことによって、しだいに狂っていきます。灯は「私」を慕い、一途に思いを寄せる後輩なのですが、「私」との仲が深まるにつれ、徐々に異常なほどセックスに対して積極的になっていきます。麻衣子と別れて灯との交際を始めた「私」は、段々と、精力的に灯に追いつかなくなっていくのです。

『破局』というタイトルは、「私」の恋の破局という展開だけでなく、「私」の世界を構成していた局所的な社会観や倫理観、「自分は強い」という主観が破局する──という結末も暗示しているかのように感じられます。

「私」の主観は異様に思えますが、さまざまな社会規範に囲まれて生きている以上、どんな人にも多かれ少なかれ「私」のような部分があるのかもしれません。ひとりの人物の主観が世界をどのように見せるかを緻密に描ききった、隙のない傑作です。

「美しくなりたいだけ」の「私」の内面を描く──文藝賞受賞作『改良』


出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4309028462/

『改良』は、第56回文藝賞を受賞した遠野遥のデビュー作です。
主人公は、女装趣味がある大学生の「私」。「私」は、美しくなりたいという純粋な欲望に則って女装をしています。

初めてメイクをしたときは、わからないことだらけだった。そもそも最初はどんな道具を買えばいいのかさえわからず、何が必要なのかがおぼろげにわかってきたとしても、同じ用途なのに途方に暮れるほど多くの商品が売られていた。(中略)
それでも、インターネットを活用してメイクの勉強をし、何度も何度も繰り返し練習するうちに、ある程度思った通りの操作ができるようになっていった。何をすればどういう変化が起きるのかということを、少しずつ摑んでいった。完成までにかかる時間も今では格段に短くなり、メイクを始めてまもない頃とは比較にならなかった。

「私」の周囲の人間は、「私」の性的指向を一方的に決めつけたり、「変態さん」と呼んだりして、その尊厳を踏みにじり続けます。あるとき、「私」はナンパをしてきた男にトイレに連れ込まれ、性的な暴力を受けます。始めは男の指示どおりにしていた「私」ですが、しだいに自分の内に湧き上がる違和感と怒りを抑えられなくなります。

私は、初めてメイクをしたときのことを思った。全然思い通りにならなかったけれど、私は一生懸命だった。(中略)
少しずつ自分をきれいに見せることができるようになっていくのが嬉しかった。あのときの私は、男の気を惹くことを考えていたのだろうか。そうではないはずだった。私は、美しくなりたいだけだった。男に好かれたいわけでも、女になろうとしたわけでもなかった。

ここで、「私」は初めて男に反撃をするのです。
本作で描かれているのは、杓子定規のジェンダー観や社会観の枠組みに人を当てはめようという圧力への、「私」の抵抗です。「私」は性的暴行を受けているときにも自分の身につけているウィッグが本来あるべき位置からずれていることを気にしたり、暴力を受けた自分の外見が他者の目にどのように映るかに思いを馳せたりと、どこか異質な主観を持った人物ではありますが、“美”への執着の強さは終始一貫しています。

「女装をする人は男性が好きであるはず」、「暴力を受けた人はこう感じるはず」──といった一方的な解釈や思い込みに、静かに警鐘を鳴らすような一作です。

渇いた文体と不思議なユーモアが癖になるエッセイ


出典:https://www.amazon.co.jp/dp/B08DSVJQQS/

前述したとおり、遠野遥の発表作品はまだ『改良』と『破局』の2作品のみ。しかし、癖になるようなその独特の語り口とユーモアは、エッセイの中でも遺憾なく発揮されています。

『規則正しい生活』(文學界 2020年9月号掲載)と題されたエッセイの中では、芥川賞をとったものの、自分の生活や心境そのものには影響がない──ということを率直な文章で語っています。

書き終わり、私が内容を忘れた頃に出版されて、色々な人が色々なことを言うが、すべては終わったことだ。好意的な感想は、読むと嬉しいから読むし、スクショするが、否定的な感想はつまり、その人に向けて書かれた作品ではなかっただけのことで、要するにどうでもいい。
賞をとったからといって、やるべきことは何も変わらない。規則正しい生活を心がけて体を常に健康に保ち、毎日淡々と書いていくだけ。

同じエッセイの中で著者は、

大人になると、後ろから走って追いかけられることはあまりない。サッカーやラグビーなどのスポーツをやっていればあるかもしれないが、やっていないので、今年に入ってからまだ一度も追いかけられたことはない。しかし、夢の中では、やけに追いかけられる。大体、月に2回は、追いかけられるだろうか。

とも語ります。淡々とした語り口と渇いた文体が、あまりに堂々としているが故に、不意にユーモアに転じることがあるのが特徴のひとつです。

芥川賞の「受賞のことば」の中にも、こんな一節があります。

私は、デビューしてまだ十ヶ月であるし、日々鍛錬に励んでいるため、これからもっと面白くなっていくことになる。次作の発表まで少し間が空くと思うが、それまで覚えていて欲しい。

力強さと自信を感じるとともに、“これからもっと面白くなっていくことになる”という断言には思わずワクワクさせられてしまいます。小説の中で見られる突き抜けた主観がそのまま反映されたようなエッセイは、癖になる魅力を持っています。

おわりに

小説家としてデビューしたばかりの遠野遥ですが、その完成された作風ですでに多くのファンを得ています。受賞記念インタビューの中で、

『破局』が代表作ということにはならないと思います。

と語っている遠野氏。すでに執筆に着手しているという3作目、4作目が、いまから非常に楽しみです。

初出:P+D MAGAZINE(2020/09/18)

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