採れたて本!【海外ミステリ#35】

冒険小説の一時代を築いたシリーズに、ディック・フランシスの〈競馬〉シリーズがある。レースに仕掛けられた不正を調査する『興奮』や、競馬中の事故で騎手生命を絶たれた調査員シッド・ハレーを描く『大穴』『利腕』などが日本では特に有名だが、シリーズといっても、シリーズキャラクターが起用されているわけではない(シッド・ハレーは例外だ)。さらに、必ずしも直球で〈競馬〉が扱われるわけではない。例えば『証拠』という作品は、ワインの世界に潜む陰謀を暴くミステリーであり、競馬は意外な形で絡んでくる。そういうツイストも含めて、〈競馬〉シリーズだったのだ。
筆者は、〈競馬〉シリーズが長らく愛されてきた理由の一つに、この豊饒さがあると思う。競馬、競走馬に対する一貫した愛をもって、しかし一面的には描かない。ディックの息子、フェリックス・フランシスは、こうした〈競馬〉シリーズの精神もまた、受け継いでいるのではないかと、最新刊『虎口』を読んで思った。
フェリックス・フランシスの〈新・競馬〉シリーズが文春文庫で始動している。第一弾は今年五月に刊行された『覚悟』であり、これは父が産み出した名キャラクター、シッド・ハレーものの続編だった。訳者の加賀山卓朗の気合のこもった訳文も相まって、往年のスリラーの興奮が鮮やかに蘇る一作となっていた。
それから半年も空けずに邦訳されたのが、今回の新刊『虎口』である。危機管理コンサルタントのハリイ・フォスターが主人公であり、競馬の聖地、ニューマーケットで起こる事件に巻き込まれる。七頭の馬が犠牲になった厩舎火災に関連して一人娘の遺体が発見され、カリスマ調教師一家の人間関係に分け入っていく、英国ミステリーらしいフーダニット(犯人探し)が繰り広げられる。
……と書くとかなり硬質な作品に見えるが、読み始めてみると、その印象は覆される。ハリイが自身の勤める〈シンプソン・ホワイト・コンサルタンシー〉に就職するまでの小冒険は、さながらスパイ映画の世界だ。事件の真相自体はかなり陰惨なものだが、ハリイの地の文が陽性のユーモアに満ちていて、読者に重いものを残すことはない。若々しい青年が仕事を通じて恋に出会うシーンなども、〈競馬〉シリーズがまさしく若返るようなみずみずしさで、とても心に残る。
そして、こうした特徴は『覚悟』の引き締まったスリラー性とはまったく逆の位置にありながら、しかし、文章自体の魅力、話づくりの魅力、サスペンスの魅力などは一貫しており、「シリーズ」としての満足感はしっかり得られるようになっている。半年に一回、あるいは一年に一回読んで、ああ、今回も良かったねと満足して本を閉じられる。〈競馬〉シリーズの最も大切な読後感を、〈新・競馬〉シリーズは引き継いでいる。
クライマックスにおいて事件関係者が一堂に会し、ハリイが「さて」と口を開くなんていう、名探偵のお約束もしっかりこなす。きっちり、謎解きミステリーでもあるのだ。『虎口』はこれまでの〈競馬〉〈新・競馬〉シリーズを読んだことのない人にも、スリラーに苦手意識のある人にも、その魅力を届けてくれる懐の深い一冊といえる。
評者=阿津川辰海






