月刊 本の窓 スポーツエッセイ アスリートの新しいカタチ 第7回 山縣亮太

2016年のリオ五輪4×100mリレーで銀メダル獲得。2017年9月には全日本実業団対抗陸上選手権100mで、10秒00の自己新をマーク。もはやスーパースターになった感のある山縣選手だが、そのトレーニングに密着すると、そこには、これまでの陸上界の常識を覆す、まさに「新しいカタチ」があった。

 
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「天性のスタート」を持つ山縣。2017年秋、日本歴代2位となる10秒00を記録したレースでは、「今までにない良い感覚を摑んだ」と自信をのぞかせた。移動で公共交通機関を使う時は、時々周りの人に気づかれることも。「隣で画像検索しているのが見えちゃったことも」と照れ笑いする。

山縣亮太(25歳)
(セイコー陸上競技短距離選手)

Photograph:Hideyuki Watanabe

 
 一瞬、ファッションモデルかと思った。派手な格好をしていたわけではない。「孤高のスプリンター」として知られる山縣亮太は、いつもの練習場にいつもと変わらないだろうラフなカジュアル着でやってきた。グレーのTシャツに黒っぽいパンツといったモノトーンのシンプルウェア。きっと何を着てもカッコいいのだろう。イケメンであるのは言うまでもないが、何か一見してモノクロに収まらない、輝くオーラが見えた気がした。
「あ、こんにちは!」。次の瞬間、山縣はこちらに挨拶をしてくれた。リオデジャネイロ・オリンピックの陸上男子四百メートルリレーで日本中を興奮させた銀メダリストである。いかにも気負いのない自然な笑顔を見せると、母校・慶應義塾大学の後輩たちとも気さくに言葉を交わし、更衣室へと入っていった。
 この日は、母校でのトレーニング。後輩も加えた数名も一緒だった。ほんの数か月前までたった一人で練習していたという山縣は、「今日は“大所帯”。非常に楽しいです」と、リラックスした表情で練習メニューをこなしていった。和気あいあいと後輩にもイジられている。その傍らで、長年の友人でマネージャーの瀬田川歩氏が、メニュー進行の管理を行う。時計を見やりながら「あと三分でーす」と仕切っては、動画を撮影し続けていた。
 日々の積み重ねが世界での活躍を支えている。ゆるく穏やかに見える練習の中でも、オンオフの切り替えは時にとても鮮やか。この日のメニューの最後にあった坂道ダッシュは、まさにサラブレッドが大地を駆けているように、優雅で迫力があった。間近で見て初めてわかる躍動感と美しさに圧倒された。
 リオデジャネイロ・オリンピックの熱狂を昨日のことのように思い出す。日本新記録どころかアジア新記録の三十七秒六〇を叩き出し、世界に衝撃を与えたあの日本男子の四百メートルリレーだ。ロンドン五輪に続いて、リオでも第一走者を務めた山縣は、世界トップレベルのスタート技術を持つことで知られる。それだけに試合前、あの刀を抜くイメージを模した「侍ポーズ」で、山縣だけがワンテンポ(しかも大きく!)遅れたのにはヒヤッとさせられた。
 後日談によると、実はあの時からレースに集中し始めていたのだという。驚くべき集中力と勝負強さで、リオで圧巻のスタートを切った山縣から、日本の“快進撃”は始まったのだ。

突出した「かけっこの天才」ぶり
たった一人の陸上部で目指したリオ

 山縣は、広島でスポーツ用品店を営む両親の下に生まれた。幼い頃から広島市民球場に通うカープファンで、将来は野球選手になることを夢見ていたという。転機となったのは、小学四年生の時。市のスポーツ交歓大会の百メートル走で優勝をしたことだ。陸上クラブに通うような並み居る小学生が早くもスパイクを履いて参戦する大会だったが、山縣はスニーカーでぶっちぎった。
「ピンのある靴とスニーカーとじゃ一秒くらい違うんですけど、僕は当時そんなの知らなくて。でも、スタートした瞬間から、途中で誰かを抜かしたとかもなく、ずっと一人で先頭きって走ったんです。その時に走りながら思ったんです。『ああ、これが自分の得意なことなんだ』って。今でも鮮明に覚えています」
 この走りが地元の陸上クラブの指導者の目に留まった。地元の広島ジュニアオリンピアクラブ(現オリンピアプラス)の関係者にスカウトされると、「“かけっこ”がスポーツだなんて知らなかった」という山縣少年は、同クラブに通うように。「すごく楽しかった」と小学生で全国大会で入賞するなど、めきめきと頭角を現した。
 山縣が特異なのは、早々に全国レベルのスプリンターと注目されながらも、陸上短距離の強豪校を選んでこなかった経歴にある。高校は、広島でも有数の進学校として知られる修道高校に進学すると、AO入試で慶應義塾大学へ。「ひねくれてたんですね。他の人がやってないことにチャレンジして、結果を出すことに価値を見出してた」と振り返る。練習メニューも自分で考えてきた。“インテリスプリンター”と呼ばれるゆえんだが、究極の“陸上オタク”なのかもしれない。今も「日によって身体の動きは変わる」と常に練習を録画し、自宅で確認する。
 大学へ進学する時には、さらに高みを目指すべく、空手を学びたいと考えた。目的は精神力の強化。「あくまで陸上のために空手がしたかったんですが、強豪校に進んだら、空手を習うことが許されるとは思っていなかったんです。でも慶應ならと」
 慶應義塾大学の創始者は、かの福沢諭吉。『学問のすゝめ』で自由・平等・権利の尊さを説き、それまでの常識にとらわれなかった “独立自尊”の人としても知られる。教えてくれたのは、高校時代から山縣を見てきた専任コーチの川合伸太郎氏。山縣を慶大に導き、大学時代も競走部の監督として成長ぶりをずっと見守ってきた。
「山縣には慶應義塾の心である『独立自尊』や、同大学の発展に寄与した教育者でアスリートだった小泉信三氏が説いた『練習は不可能を可能にする』『フェアプレーの精神』『生涯の友』といった慶應アスリートの優れた面が見事に具現化されています」
 福沢いわく、「心身の独立を全うし、自らのその身を尊重して人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云う」。つまり、自分の信じる道を自己責任で行うことが尊ばれるのが同校の理念でもあるのだ。山縣が自分流に向上すること、ひたすらに練習を重ねる姿勢、上下関係なくフェアに後輩に接する態度、瀬田川氏はじめ生涯の友人を築くことのできる人間性。山縣のための理念ではないかと思われるほど、ロールモデルのように当てはまる。
 現在、山縣が所属するセイコーは、もともと陸上部がなかったが、これを繋いだのも川合氏だそうだ。大学卒業後も、縛られることなく山縣らしく向上を続けられるよう、そしてサポートを受けられるようにと。こうして山縣は「孤高のスプリンター」としてリオへの道を邁進したのだった。
 
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リオ・オリンピックで銀メダルに輝いた4×100メートルリレーの日本代表メンバー。左から、山縣(一走)、飯塚翔太(二走)、ケンブリッジ飛鳥(四走)、桐生祥秀(三走)。37秒60という記録は当時、ジャマイカの36秒84、米国の37秒38に次ぐ国別の世界歴代3位の快挙。
(写真提供:産経新聞社)

 
 とはいえ、実業団チームではなく、たった一人の陸上部である。現実問題として、スケジュール管理や大会へのエントリーなど、諸々のマネジメントはどうするのか。そこで、大学時代の同期で競走部のマネージャーだった瀬田川氏に白羽の矢が立った。山縣を心配していた瀬田川氏は「手伝います」と引き受けると、そのために内定していた大手損保会社の入社を辞退。当初は別会社に勤め、休みを使って山縣のサポートに勤しんだという。二年後の今年からは、セイコーに転職。山縣の専任マネージャーとして正式に社員となった。

長年の親友でマネージャーと夫婦のよう?
最強チームへと高める「健さん」の存在

 山縣と瀬田川氏とは、大学時代からの仲間だ。学生時代は、一緒に日本各地へ自転車旅行もした。だから、仲良く楽しい時間を過ごせるだけでなく、疲れた時や機嫌が悪くなった時はどうなるのかなど、互いの性格を熟知している。取材中も、“つうかあ”の間柄をうかがわせる二人のやり取りが面白くて仕方なかった。
 どちらかというと、「ため込むタイプ」という山縣と「スルー力が高すぎる」とみられる瀬田川氏。まるで正反対の二人が絶妙に補完し合っているのだ。山縣が「僕は機嫌が悪くなると、黙るタイプなんですよね」というと、瀬田川氏が「黙りますね」と合いの手を入れ、「でも、いよいよとなったら(思っていることを)言いますよね」と補足する。言いたいことを言い合えるのは絆ですね、と水を向けると、山縣は「まあ、言ってなんぼみたいなとこはありますね」と瀬田川氏を見て笑う。
 すると、瀬田川氏はきりりと加える。「前提として、ケンカにはならなくて、僕が彼を怒らせてしまうことのが多いんですよ。僕はあまり気にしないタイプで忘れちゃったりするので」。すると山縣が、「そう、彼は怒らない。僕が怒るんです」と同意。そう言いながらも、山縣は「でも僕が選手、彼がマネージャーという関係性があって、僕は基本的に自由にさせてもらえる側なんです。だから、これまで彼を困らせることは何度もあったし、これからもあるかもしれないです」。とさながら、さだまさしの大ヒット曲「関白宣言」なのだ。二人が、旧き良き日本の素敵な夫婦にも見えてくる。
 こうした絶妙な関係性を持つ二人に、「最強のチーム」になるべく加わったのが、フィジカルトレーナーの仲田健氏だ。これまで、柔道の野村忠宏やゴルフの石川遼、レーシングドライバーの脇阪寿一など、数々のトップアスリートを指導した同氏は、二〇一五年から山縣亮太も見るように。その結果、山縣はさらなるレベルアップを遂げ、リオでの成功を収めた。
 
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山縣と瀬田川氏(下写真中央)が出会ったのは大学時代。今も語り草のエピソードがある。高校から慶應の競走部だった瀬田川氏は、「だんでぃ(先輩につけられ、今も使用)」の愛称で有名だった。初対面の時、山縣は気さくに接することを試みた結果、第一声で「お主がだんでぃという者か」と挨拶。瀬田川氏は、「友だちになれないタイプかも…」と驚き、「正直後ろに反った」のだそう。一方の山縣本人は「覚えていない」とのこと。
 
 仲田氏について、二人は堰を切ったように信頼と敬意を語る。「健さんは、とてもシビアな方。おかげでどれだけ多くを学べたかわかりません」と瀬田川氏が背筋を伸ばせば、山縣は「健さんのトレーニングは、上半身と下半身をしっかり連動させないとできない。一か所の筋肉だけに負荷をかけるのではなく、何か所もが複雑に連動しあってる動作なんです」と進化への手応えを語る。
 シーズン終了間際の二〇一七年九月、山縣はついに日本歴代二位の十秒〇〇を記録した(わずか二週間前に桐生祥秀が九秒九八で歴代一位を更新)。夢の九秒台は来シーズンに持ち越された。だが、これまでにも何度となく行き詰まりを感じたという山縣は、今では自分のさらなる伸びしろに興奮を隠せない様子で言う。
「自分でも強くなってる実感があります。やることもいっぱいある。このチームで一生懸命、ケガなく行けたら、もっともっと記録が伸びるなって。今そう感じながら、やらせてもらえるっていうのはすごく幸せです」

魚を捌く技術も動画投稿サイトで
SNSは女子力も高すぎる!?

 十月三十一日のハロウィンの朝、セイコーの社員のデスクに手作りクッキーが置かれていた。贈り主は、チーム山縣。日ごろの感謝を込め、山縣が生地を伸ばし、ハロウィンのキャラクター型に抜いて、飾り付けをした。写真はセイコーのツイッターに投稿されている。傍らには瀬田川さん。料理好きで甘党の山縣は、とても嬉しそうに笑みをたたえている。
 ちなみに、山縣のツイッターで、何よりも異彩を放っているのは魚のネタだ。魚を釣るのも食べるのも大好きという山縣は、それらを自分で料理するのが一番の趣味という。このオフシーズンに入ってからは、「#今日の魚」というハッシュタグつきで、尾頭付きの鯛やホウボウ、サバなどを美しく捌いたり、盛りつけたり。調理前と後の写真とともに投稿されている。
 様々な種類の魚を鮮やかに捌く腕前。どこで覚えたのかというと、動画サイトのユーチューブを見て、練習したのだという。「最近は懇切丁寧な動画がありますから」と山縣。実は、陸上短距離の技術も動画で“研究”した経験があるという。
 近年、にわかに日本のスプリンターが次々と出てきた理由について、山縣はこうした動画も一翼を担っているのではないかと語る。「情報が手に入りやすくなったのは一つ理由にあると思います。わからないですけれど、僕なんかそれで伸びたので。海外のいい選手の走りとかを動画で見て、こういうイメージかって、高めていきました」という。第四回で取材したバレーボールの石川祐希も同じことを言っていたことが思い出される。
 トップアスリートにとって、イメージは具現化できるものなのだろう。二〇二〇年の東京オリンピックは、どんな戦いが見られるのだろうか。そう尋ねると、山縣は嬉々として語る。「やっぱり日本のスプリンターがぐっと来てるんじゃないでしょうか。(決勝の)八人に複数人の日本人がいることも夢じゃないと思います」。もちろん、その中には山縣自身の姿もあるはずだ。夢は現実になりつつある。
「孤高のスプリンター」と呼ばれた山縣は、これからも一人ではない。周りの人に支えられ、チームで九秒台へ挑み、同胞のスプリンターたちとともに、最高の大舞台を目指すのだから。

 

プロフィール

アスリート第7回プロフィール画像
山縣亮太
やまがた・りょうた
陸上短距離選手。セイコー所属。1992年生まれ。身長177センチ、体重72キロ。広島県広島市出身。小学4年生の時、地元の陸上クラブにスカウトされる。修道高校時代に、国体での優勝や世界ユース選手権で入賞を経験。慶應義塾大学に進学し、2012年にロンドン五輪に出場する。16年のリオ五輪では、100メートル準決勝で10秒05の五輪日本人記録をマーク。4×100メートルリレーでは第1走を担い、銀メダルを獲得した。17年の全日本実業団選手権では日本歴代2位タイとなる10秒00を達成。
 
 
松山ようこ/取材・文
まつやま・ようこ
1974年生まれ、兵庫県出身。翻訳者・ライター。スポーツやエンターテインメントの分野でWebコンテンツや字幕制作をはじめ、関連ニュース、書籍、企業資料などを翻訳。2012年からスポーツ専門局J SPORTSでライターとして活動。その他、MLB専門誌『Slugger』、KADOKAWAの本のニュースサイト『ダ・ヴィンチニュース』、フジテレビ運営オンデマンド『ホウドウキョク』などで企画・寄稿。

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