◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第12回 前編
大金を投じて新造した弁財船には次々と海難が──
田沼が解職された同じ二十七日に、御用取次(ごようとりつぎ)の稲葉正明(まさあきら)が罷免され、前年春に加増されたばかりの三千石を没収のうえ蟄居(ちっきょ)謹慎まで言い渡された。稲葉は明らかに罰せられた。
稲葉正明は、閣老と将軍の間を取り持ち、老中と若年寄による未決の事案を将軍に上奏して決裁を仰ぐ要職に就いていた。元は三千石取りの旗本で家治の小姓だったが、御用取次に登用されて以来、田沼とともに領地の加増を重ねて、天明元年(一七八一)には安房(あわ)館山(たてやま)一万石の藩主にまで登り詰めた。稲葉は長年、意次が推進する政策の認可を将軍家治から取りつけてきた。姻戚関係においても、子息正武(まさたけ)の妻に田沼家の養女を迎え、意次との結びつきを強固なものとしていた。
天明四年(一七八四)十一月、幕府は、蝦夷地探索のため廻船御用商の苫屋久兵衛(とまやきゅうべえ)に御用船二隻の建造費と諸経費を合わせ金三千両の拝借金融資を決めた。その際、意次は、御用部屋での評議にかけることなく稲葉正明に取り次がせ、将軍家治の認可を直に受けた。財政を預かる勝手方(かってがた)老中格の水野忠友(ただとも)も、意次の四男を養子にして姻戚関係にあったが、この巨額融資に関しては知らなかった。
折からの大飢饉と財政難にあえぐ最中に、蝦夷地探索ごときに江戸城奥の御金蔵から三千両をつぎ込むのは、田沼人脈で固めた御用部屋の評議でさえ、すんなり通るとは意次も思えなかったものだろう。意次の意を受けた稲葉正明は、将軍家治に直裁を仰ぎ、認可を勝ち取った。大老の井伊直幸(いいなおひで)や筆頭老中の松平康福(やすよし)は譜代門閥出身ゆえの役名ばかりの人物で、将軍から決裁された以上は追認するしかなかった。
三十九
天明六年(一七八六)八月二十八日、加瀬屋伝次郎(かせやでんじろう)が外から戻ってみると、玄関土間に見慣れぬ雪踏(せった)があった。丸屋勝三郎(まるやかつさぶろう)が久しぶりに訪れていた。芝(しば)金地院(こんちいん)内の後家に入夫(にゅうふ)して以来、ほぼ一年ぶりに会った丸屋は、少し太ったせいか以前の持って行き場のない苛立(いらだ)ちが消え、かなり落ち着いて見えた。羽織に月代(さかやき)を剃らない儒者頭で、脇差も帯びていなかった。噂に聞いていたような俄侍(にわかざむらい)の馬鹿げた格好はしてなかった。
伝次郎は丸屋が家に立ち寄ることはもうないだろうと思っていた。武家に入夫することは別に悪いことではない。本人の人生だから丸屋がどのように生きようが、それに口をはさむ気もなかった。だが、妻子を得て、暮らしのためにオランダ眼鏡(めがね)と眼鏡絵造りに追われ、丸屋の具(そな)え持っている天与の画才を見失うことを至極もったいないと思っていた。丸屋の鋭敏な感知力が、伝次郎の失望をそれとなく察知し、次第に遠ざかっていったように思われた。
丸屋は悪びれる様子もなく型通りの無沙汰をわびた後、「旦那がご存じかどうかはわかりかねますが、やはり家治公が亡くなったのは確かなようです。この二十日とか、二十五日とか、さまざまに飛び交っています」といきなり言った。
「家治公が死ななければ、田沼の解職もないだろう」そう伝次郎は答えた。