◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第12回 前編

◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第12回 前編

天明六年の江戸に訪れた大きな政変。
大金を投じて新造した弁財船には次々と海難が──

「しかしそれにつけても、一橋家の家老は初め、田沼の弟意誠(おきのぶ)が務め、意誠が死ぬとその息子の意致(おきむね)が継いだ。一橋の息子の家斉を家治公の世継ぎにしたのも、田沼ですよ。殿中とは恐ろしい所ですね。天下を握るためには血も涙もない。わたしなんかがこんなこと言うのも変ですが」丸屋は笑い飛ばしたが、目は笑っていなかった。

「家治公が亡くなってしまえば、次の将軍は一橋の息子、田沼にはもう何の用もない。一橋と松平越中、それに御三家がこれで立場を逆転させ、田沼はもはや五万七千石の一大名に過ぎない。田沼から幕政を取り上げただけでこのまま済むはずがない。利用できるだけ利用して、いざ役に立たないと見るや牛馬捨て場に放り出される。次々と老中時代の汚点が暴き出されて、大名に留まっていられるかどうか」

「……しかし、こういうあっけない終わり方をすると、何かこう、寂しい思いがします。わたしごとき根無し草には、田沼の時代は、そう悪くなかった」丸屋は視線を遠くに送り珍しく真顔でそう言った。

 確かに、祭りの馬鹿騒ぎが終わった夜のような寂寥(せきりょう)の思いが伝次郎の胸中にもあった。ひとつの時代も、人の生も、誰かが眠りのなかで見ている夢のごとく目覚めたときには消え失せてしまう。そして、夢を見ていたその何者かは、永遠の静寂と死の顔を持っていた。

 

 田沼意次が全権を掌握して実際に幕政を取り仕切るようになったのは、元号が天明に変わってからの足掛け六年ほどだった。だが、宝暦八年(一七五八)九月、御用取次であった意次が評定所の案件を将軍へ上奏するようになって以来、それまでとは明らかに異なる陽光が差し込んだことは事実だった。

 丸屋が鈴木春信(はるのぶ)門下の浮世絵師となったのは、明和二年(一七六五)、十九歳の時だった。鈴木春信は神田白壁町(しらかべちょう)に住み、平賀源内も春信の借家で暮らしていた。近くには杉田玄白と宋紫石(そうしせき)も住んでおり、彼らは春信や源内とも親しく行き来していた。当年四十歳になる丸屋の人生において最も重要な人々との出会いがあったのはその頃だった。

 その明和二年、「大小絵暦(えごよみ)の会」と称する趣味人の交換会で、春信は多色摺(ず)りの木版画「錦絵(にしきえ)」を初めて世に問い、一躍人気を博した。それまでの墨摺り一色か、せいぜい朱と青を摺り入れた程度の貧相な浮世絵が、一気に華やかで美しい錦絵となった。質素倹約ばかりが叫ばれ華やかさを憎んだ吉宗の時代には考えられない彩(いろど)りだった。その多色摺りは平賀源内の発案だとも語られた。

 特に春信版画で人々の目を見張らせたのは、人や物の背景に明るい青色を用いたことだった。丸屋の師匠宋紫石も、ほの暗い背景に青みがかった色を好んで使った。そして、丸屋の銅版画にいたり、画面いっぱいに青空が描かれた。そのさわやかな水色は、新鮮で、異国の香りを漂わせた。

 田沼意次が将軍家治の側用人となり、二万石の大名に駆け上り遠江(とおとうみ)相良(さがら)に築城を命じられたのはその二年後のことだった。

(後編へつづく)
〈「STORY BOX」2020年2月号掲載〉

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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