◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第12回 後編
大金を投じて新造した弁財船には次々と海難が──
苫屋雇い船の自在丸は、天候の急変に一旦下北半島の佐井(さい)港へ戻り、強風を避けて再び北上した。アッケシへ入港したのは、風波の収まった九月十日過ぎになってからだった。自在丸で水先案内を務める伊豆生まれの伝右衛門による好判断だった。
伝右衛門ら自在丸の船乗りたちも、堅牢なはずの御用新造船が二隻とも野付(のつけ)水道で破船したとの報に接するなり、色を失くして立ち尽くすしかなかった。ともかく、かなりの量がまだ残されている江戸向けの海産物を各運上屋で積み入れ、品川へ運んで売りさばくしか苫屋の損失を減らす方法はなかった。
自在丸は、根室半島のノサップ岬を越えて野付水道に入り、破船となった五社丸の船体が残るニシベツ川河口の沖をそのまま北上した。野付半島を過ぎ、シベツ川の河口沖に着いた。シベツの前崎には、破船となった神通丸の八百五十石積みの巨体が、座礁したまま波に洗われるのにまかせていた。シベツで運上小屋に残されていた塩鮭や魚油などの荷を、艀舟(はしけぶね)と先住民の板つづり舟を使って自在丸に積み上げた。八百五十石積みの御用船二隻と八百石積み自在丸の三隻で江戸まで運ぶ積荷の量を、自在丸一隻で運ぶのは所詮無理な話だった。
自在丸は一旦アッケシへ寄港して、皆川沖右衛門から積荷の点検を受け、松前に向かうことになった。皆川の指示は、東蝦夷地の海産物を松前に運び再度数量の点検をした後、松前から品川へ運びそこで売りさばくというひどく手間のかかるものだった。いずれ勘定奉行所からの検(あらた)めが入った時に備えた措置だった。しかし、弁財船の航海は風と海流に左右される。松前には寄らずにアッケシからそのまま北西風に乗って南下し江戸へ向かうのがはるかに手取り早かった。アッケシから南下し津軽海峡に入って西の松前へ直行するのは、対馬海流が西から流れ込むため難しく、一度下北半島の佐井などに入り、そこから再び津軽海峡を渡って松前に行かなくてはならなかった。新たに廻船を雇い入れたとしても、かなりの荷が東蝦夷地の運上小屋と松前に残されるのはまぬがれなかった。
四十一
九月、将軍家治の死去はまだ公表されなかったが、田沼意次が老中を事実上解任され、幕政の主導権は次期将軍家斉の父一橋治済や松平定信の御三卿と御三家が握った。沈没する泥船に留まっていれば溺死するしかない。早々と新たな船に乗り換える者が現われ始めた。
五日、老中の水野出羽守忠友は、跡継ぎにと田沼家から養子に入れた意正(おきまさ)の離縁を願い出て、この日幕府より許可された。忠友は七千石の旗本から駿河(するが)沼津二万石の大名にのし上がり、前年五月には老中となり再度の加増によって表高三万石となった。忠友には男児がなく意次の息子意正を養子にし、名も忠徳(ただのり)と改めさせ水野家を継がせる話だった。忠友のここまでの出世が、養子縁組をふくめ意次との密接な関係によるものであるのは明らかだった。それが将軍家治の死去によって一橋治済と御三家に主導権が移り、意次の老中解任を見るや、手のひらを返して意次との関係を断ち切った。
七日、石見国(いわみのくに)浜田六万四百石の城主で老中首座の松平周防守(すおうのかみ)康福も、意次との絶交を水野忠友に届けた。松平康福は、譜代の門閥出身ながら田沼長男の故意知に娘を嫁がせ強固な姻戚関係を築いていた。松平康福もまた、実権が一橋治済卿と御三家に移った以上、意次との結びつきがいずれ災いとなるのを予見し、いち早く保身に走った。
八日、幕府は、将軍家治がこの日巳(み)ノ下刻(午前十時半頃)に死去したことを公表した。
十二日、奥医師の千賀道隆(せんがどうりゅう)が、妹との関係を絶った旨を幕府に届け出た。道隆の妹は、「神田橋お部屋様」の呼称で知られる意次の愛妾(あいしょう)だった。千賀道隆の息子道有(どうゆう)は、平賀源内が獄死した後、自らの菩提所浅草の総泉寺へ斡旋(あっせん)して源内の遺骨を手厚く葬った人物である。源内のエレキテルを見物したこともある「神田橋お部屋様」の仮親となったのも道有だった。これまでは意次との結びつきが世渡りに不可欠なものだったが、以後はわずかなかかわりも災いに転じる危険をはらんでいた。