【映画『メッセージ』原作】世界的SF作家、テッド・チャンのおすすめ作品

2019年12月、新刊『息吹』が日本で発売となり、SFファン以外からも注目を浴びつつある世界的な小説家、テッド・チャン。今回は『息吹』を中心に、テッド・チャンのおすすめ作品を3作ご紹介します。

世界のSFファンから熱狂的かつ絶大な支持を集めているアメリカの小説家、テッド・チャン。30年間にわたる作家生活の中で全作品数が20篇に満たないという極端な寡作でありながら、その人気は衰えることを知らず、むしろ高まり続けています。

昨年には、バラク・オバマ前アメリカ大統領が自身のFacebookに「人間について理解が深まる、最上のサイエンス・フィクション」とコメントを寄せつつ、テッド・チャンの最新短編集である『息吹』を推薦図書として紹介したことも話題を呼びました。

日本でも2019年12月、『息吹』がようやく発売となり、じわじわと注目を集めています。今回は、日本ではまだあまりSFファン以外に知名度が高くないテッド・チャンのおすすめ作品を、あらすじとともにご紹介していきます。

もうひとつの「世界」の秘密を探求してゆく──『息吹』

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出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4152098996/

『息吹』は、テッド・チャンが2008年に発表した短編小説です。ヒューゴー賞、ローカス賞、英国SF協会賞というSF界の権威ある文学賞を総なめにした本作は、20ページに満たない短さでありながら、読後に長い余韻を残す作品です。

本作の舞台は、私たちの住む世界とはまったく別のルールで成り立つ世界です。その世界の住人たちは、空になった肺を、空気で満たした肺と毎日手動で交換することで生きています。彼らには寿命という概念がなく、その“肺”の交換を怠らない限りは、永遠に生きることができる存在です。

われわれは毎日、空気をいっぱいに満たした二個の肺を消費する。われわれは毎日、空になった肺を自分の胸郭からとりだし、満杯にした肺と交換する。もし不注意にも交換を怠り、空気レベルが下がりすぎた場合には、手足が重くなり、再充填の欲求が高まる。肺一個を入手することもかなわぬまま、胸郭に充填されている二個の肺が両方とも空になるという事態は極めて珍しい。

しかし、本作の語り手である解剖学者はある日、不思議な話を耳にします。この世界では毎年元日の正午に、触れ役(町議会や裁判所などからの広報を行う係)によって新年を祝う詩が暗唱されるという習わしがありました。詩の暗唱にはちょうど1時間がかかるはずが、なぜかこの年には暗唱が終わる前に街の塔時計が午後1時を告げたという話を、さまざまな地域の人物たちが証言したというのです。

解剖学者はその話からとある“仮説”を思いつき、自らの脳を解剖するという危険な実験に及びます。命がけの実験によって彼が辿りついた結論は、自分たち人類の脳の処理速度が落ちているという事実でした。

万人の脳を流れる空気の速度が低下しているとしたら、どんな原因が考えられるだろう。給気所から供給される空気の圧力低下ではありえない。われわれの肺の空気圧はそのままでは高すぎるので、脳に到達するまでに一連のレギュレーターで段階的に下げていかなければならないくらいだからだ。力の減少は、逆側から生じているにちがいない。すなわち、われわれの周囲の大気圧が上昇しているのである。

宇宙のあらゆる場所の気圧が均一になれば、すべての空気は動きを失い、役に立たなくなる。いつか、われわれをとりまく空気がすべて静止し、そこからなんの恩恵も受けられなくなる。

このまま“宇宙の気圧の均一化”が進むと、人類は肺を空気で満たすことができなくなる──。解剖学者はこの発見を周囲に語り、世界は騒然とするのでした。

このあらすじからは一見、物語が非常に悲観的な終わり方をするように思えるかもしれません。しかし、本作の結末は決して絶望的なものではなく、むしろ人類という存在への慈愛に満ちています。緻密かつ美しい描写を通じて宇宙の成り立ちと生死の本質に思いを馳せることができる、珠玉の1作です。

映画「メッセージ」原作の名作SF、『あなたの人生の物語』

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出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4150114587/

『あなたの人生の物語』は、1999年発表の短編小説です。テッド・チャンはこの作品で同年のネビュラ賞(米国の権威あるSF文学賞)とシオドア・スタージョン記念賞(優れたSF短編に贈られる賞)を受賞し、SF作家としての地位を不動のものにしました。本作は2016年に「Arrival(邦題:「メッセージ」)」のタイトルでドゥニ・ヴィルヌーヴ監督によって映画化もされ、テッド・チャンの代表作として知られています。

物語は、主人公である言語学者の女性・ルイーズが、自分の娘に「あなた」と呼びかけるところから始まります。ルイーズはとある軍人と物理学者に声をかけられ、草原に突如出現した謎の人工物についての研究をおこなうことになった顛末を語ります。その人工物とは宇宙人との通信装置で、彼女は宇宙人との対話を試みるうち、彼らの世界の“文字”についての理解を徐々に深めてゆくのでした。

宇宙人たちが用いている文字は複雑な絵画のようなものに近く、“書き始め”と“書き終わり”──つまり時間的な順序が存在しないということにルイーズは気づきます。彼らの言語を学んでゆくうちにルイーズの世界に対する認識はしだいに変わってゆき、“時間”というものはこの世界のルールに過ぎないということに思い至るのです。

ルイーズが宇宙人の言語のルールを習得してゆくにつれ、彼女の娘である「あなた」に対して語りかけられていた物語の様相も変化していきます。過去から未来までのすべてのできごとが同時に認識される、という宇宙人の世界のルールに触れた彼女は、いつの間にか彼女の娘の生涯を見通すことができるようになっていたのです。

宇宙人の言語の習得を通してルイーズの人生観が変化したように、本作を通じ、人生観が揺さぶられるような体験をする読者は多いはずです。SFファンの方はもちろん、エモーショナルな作品や純文学が好きな方にもぜひ一度は読んでほしい、掛け値なしの名作です。

SF版「千夜一夜物語」──『商人と錬金術師の門』

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『商人と錬金術師の門』収録/出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4152098996/

『商人と錬金術師の門』は2007年の作品です。日本では2019年に発売された、前述の『息吹』の中の1篇として収録されています。テッド・チャンはこの作品でも、2008年のヒューゴー賞とネビュラ賞、そして2009年の星雲賞(優秀なSF作品に贈られる日本の文学賞)を受賞しています。

本作は、アッバスという名の商人が、自分が見聞きしてきたいくつかの物語を王様に聞かせるという『千夜一夜物語』の形式をとって進みます。アッバスはバグダッドの金物細工市で出会ったバシャラートという老人から、20年後と20年前を自由に行き来することができる“歳月の門”という門を見せられた、と語るのです。

<門>ごしに向こうを見ると、部屋のそちら側には、入ってきたときに見たのとは違う敷物と座布団が置かれているように見えました。<門>の外から向こうを眺めてみた結果、<門>ごしに見えているのはいまいるのとはべつの部屋なのだと気がつきました。
「見えているのは、いまから二十年後のこの部屋です」
わたしは、砂漠で水の幻を見た人間のように目をしばたたきましたが、見えるものは変わりません。
「そして、これをくぐることができると?」
「できます。そうやって<門>をくぐれば、二十年後のバグダッドを訪れることになります。二十年後のご自分をさがしあてて、言葉を交わすこともできましょう。そのあとでまた<歳月の門>をくぐり、現在にもどってこられるのです」

それからバシャラートは、アッバスに“歳月の門”をくぐったという3名の人物についての話を聞かせます。通常のタイムトラベル小説であれば、過去や未来を行き来する人々はしばしば自分の運命を変えようと躍起になりますが、本作では“未来はすでに決定されており、変えることはできない”ということが繰り返し語られるのです。そうであるにも関わらず人が過去や未来を垣間見ようとする意義はどこにあるのか? という疑問が、アッバスとバシャラートの会話を通して丁寧に紐解かれてゆきます。

テッド・チャンは、本作を振り返る『作品ノート』の中で、

ほとんどのタイムトラベルものは、過去を変えられることを前提にしている。過去を変えられない少数派のほうは、悲劇的な話が多い。過去の出来事を変えたいという願いをみんなが抱くのはよくわかるが、その一方、個人的には、過去が変えられないことがかならずしも悲しみに直結しないようなタイムトラベルものが書いてみたかった。

と語っています。未来がすでに決まっているとする宿命論は悲観的なストーリーを呼びがちですが、彼はたとえすべてが宿命として定まっていたとしても、人間の人生には驚くべきようなできごとや感激するようなできごとがたくさん訪れる、という真理を緻密なロジックで綴るのです。本作は、テッド・チャンの人間への温かい視点を感じられるような感動的な1作です。

おわりに

テッド・チャンは、科学や思想、言語といった幅広い分野の最新の知見を取り入れたロジカルな文章で作品を構築する作家ですが、彼が描く“未来”は必ずしもディストピアではありません。むしろ彼の作品には、過去や未来が制御不能なものであったとしても、人間はその中で葛藤し自分なりの活路を見出していく──という、人の知性や倫理観への希望と信頼が感じられます。

『あなたの人生の物語』についての章でも述べたとおり、テッド・チャンはSF小説ファンのみならず、純文学作品の読者にも強くおすすめしたい作家です。彼の作品を一度読めば、人はその知性をどう用い、どのように生きるべきか? ──ということについて考えずにはいられなくなるはずです。

初出:P+D MAGAZINE(2020/02/02)

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