◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第13回 後編

◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第13回 後編

厳罰に処された意次の栄華に思いを馳せる伝次郎。
玄六郎らは蝦夷地探索の停止を申し渡され──

 

     四十五
 

 天明六年(一七八六)閏十月三日、蝦夷地から江戸に戻った佐藤玄六郎と山口鉄五郎は勘定奉行桑原盛員(くわはらもりかず)の役宅に呼ばれ、蝦夷地探索の停止を正式に申し渡された。

 同月五日には、蝦夷地探索を立案し普請役を差し向けた勘定奉行の松本秀持が免職となり、知行の半分にあたる二百五十石を没収のうえ用済みの小普請入り、しかも逼塞を命じられた。

 同日、松本の後ろ楯となっていた田沼意次も、所領五万七千石のうち二万石を没収され、神田橋上屋敷と大坂蔵屋敷を返上させられたばかりか、蟄居(ちっきょ)まで沙汰された。監禁刑は、重いほうから蟄居、閉門、逼塞の順で科せられた。明らかに老中時代の失政に対する処罰だった。

 神田橋上屋敷からの退去は、三日の猶予しか与えられず、田沼の屋敷は夜通し釣り台で家財道具を運び出し、東閑堀の中屋敷と築地の下屋敷からも諸道具を船で遠州相良に運び出しているとの噂が流れた。何かと悪評の高い田沼の用人、楠木半七郎と三浦庄司は閉門となり、幕府から御小人(おこびと)目付を送られて監視下に置かれているという。

 

 閏十月二十日、普請役の佐藤玄六郎は、蝦夷地行きをともにした山口鉄五郎・皆川沖右衛門(おきえもん)・青嶋俊蔵との連名で二年間におよぶ蝦夷地探索を要約し、『蝦夷地の儀につき申し上げ候書き付け』という報告書を、勘定組頭の金沢安太郎(あんたろう)に提出した。

『蝦夷地は、あくまでも日本国の一地方で、ただ蝦夷人が多く住むところです。ところが、本州からの商人によって好き放題に利をむさぼられ、松前藩もこれを取り締まろうとしておりません。松前藩は彼らに農耕を教えることもなく、逆に読み書きなどの文化を禁じている有様です。今こそ幕府のご威光で商人の取り締まりを厳重に行い、蝦夷人に農耕を教え文化を広め恩恵を施しますならば、彼らも国家に有用の公民となりえます。どうかその方策を急がれたく存じます』

 佐藤らの考えは、蝦夷本島をふくめ蝦夷地を一日も早く幕府領となし、先住民アイヌを教育して日本人と同様の文化を身に着けさせ、広大な農地を開拓するとともに南下を強めるオロシャに対抗するというものだった。

 閏十月二十二日、組頭の金沢安太郎は、佐藤玄六郎ら普請役四人の連名による報告書と決算書を携えて桑原盛員の役宅に行きそれを差し出した。

 ところが、桑原盛員は、「評定所から蝦夷地の一件は差し止めにつき受理を要せず」の一言のみで、報告書のほうは受け取ろうとしなかった。

 

 十一月一日、幕府御用商苫屋(とまや)の雇い船「自在丸」は、蝦夷地から塩鮭や魚油などの荷を積み無事品川に到着した。

 同月二日、佐藤玄六郎は、山口鉄五郎と連名で一通の伺い書を上司の金沢安太郎に提出した。それは、自在丸の水先案内を務めてきた伝右衛門が、任務を一通り終えたのを機に幕府御用の雇われ人を辞し、伊豆の郷里に帰ることを乞う「御暇(おひま)願い」だった。

『江戸品川に入港しました雇い船の自在丸は、積荷の水揚げを済ませましたので、伝右衛門の望みにまかせ、在所へ帰らせてもよろしいでしょうか』

 同月四日、金沢安太郎の役宅に当の伝右衛門と佐藤玄六郎、山口鉄五郎が呼び出された。金沢は三人に対して、「御用これなきにつき、各自、勝手に帰村いたすよう」と申し渡した。佐藤と山口は、何を告げられたのか一瞬耳を疑った。

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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