◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第13回 後編

◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第13回 後編

厳罰に処された意次の栄華に思いを馳せる伝次郎。
玄六郎らは蝦夷地探索の停止を申し渡され──

 二日前に佐藤が提出した伺い書は、あくまでも伝右衛門に関する帰郷願いだった。ところが、この日金沢からの申し渡しは、伝右衛門ばかりでなく、佐藤と山口も、勝手に帰郷してよいという、三人すべてに対する解職の通知だった。

 金沢から手渡された申し渡し書にも、「百姓伝右衛門」ばかりか、佐藤玄六郎と山口鉄五郎の名前を併記し、『勝手帰村致させ候(そうろう)様(よう)』と明記されていた。

 確かに、普請役は本人一代のみの抱え席で、町奉行所の与力や同心と同じく一年ごとに上司から役目の再任を申し渡されるものだった。待遇も町方同心とほぼ同じで三十俵二人扶持(ぶち)に、役料として金数両が与えられた。それでも、町方の与力や同心はほとんどが世襲とされ、代々に渡って役目を受け継いでいた。佐藤も山口も、解職される何らの過失も汚点もなく、ただ蝦夷地一件が幕府評定所で停止と決まっただけの話である。だが、上司から再任を拒まれ帰村を命じられれば、受け入れるしかないのが現実だった。

 佐藤玄六郎は、蝦夷地探索に派遣された五人の普請役を主導し、自らも蝦夷本島を一周した最初の幕吏となった。また、天明元年(一七八一)には、松本秀持からの命を受け、無人島(小笠原諸島)を探して八丈島から十四日間航海し鳥島まで達したこともあった。

 山口鉄五郎も、クナシリとエトロフにまで渡航し、クナシリ島ではオロシャ南下の実際をオロシャ人のイジュヨとサスノスコイに直接尋問して確認していた。

 これまで、佐藤玄六郎らは、罷免された勘定奉行松本秀持に対して報告書をしたため、オロシャの南下に対してたびたび現地から警告を発してきた。

『オロシャ人の気風は、守護する者のいない地を訪れ、その場所を開拓すれば、すぐに国主に任じられる、というものです。また守護のいる他国と交易をはじめ交流することも、オロシャでは功とされ、帝から恩賞を賜わるために、近来、ヲホツコイ(オホーツク)、カムサッケ(カムチャッカ)、ならびにウルップあたりの島々にいたるまで、順次そこに住む蝦夷人を従えて国土としてきました。
 ウルップ島周辺の島々について蝦夷人に尋ねましたところ、カムサッケまでにあるシモシリ、ケトキ、ウセシリ、ラシャワ、ラクハケ、ホロムシリ、ヲンネコタンなどの島々はもちろんのこと、古来はカムサッケも蝦夷地に属していたとのことでした。
 東蝦夷地アッケシの酋帥(しゅうすい)イトコイの祖先は、カムサッケへ行き狩猟をしておりましたが、魚・鳥・獣をたくさん捕え、その肉をすぐに干し、船に積んで来ましたので、その地名をカムサッケ、すなわち(肉干し)とつけたのだそうです。
 ところが、カムサッケは言うまでもなく、ウルップ島までの島々は、残らず赤人(あかじん=オロシャ人)が横領いたし、一両年以来、エトロフ島の蝦夷人をも、次第に彼らのほうに従えようとする様子がうかがえます。もっとも、現在は蝦夷人もラッコ猟にウルップ島へ行っておりますが、年々赤人が大勢来ますので、蝦夷人はなかなかラッコを捕えられなくなっております。
 しかし、(藩主の)松前志摩守(しまのかみ)からは、ラッコを捕え差し出すよう厳しく申し渡されておりますので、蝦夷人は日本の米、酒、煙草(タバコ)を少々持参し、すでに赤人に属しております遠方の蝦夷人の捕えたラッコを、内々に少しばかり買って来るのだそうです』

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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