◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第13回 後編

◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第13回 後編

厳罰に処された意次の栄華に思いを馳せる伝次郎。
玄六郎らは蝦夷地探索の停止を申し渡され──

 佐藤玄六郎らは、新たに勘定方の奉行に起用された桑原盛員も、当然のことながらオロシャの南下に対する危機感ぐらいは共有しているはずと信じて疑わなかった。しかし、桑原盛員は、経費の決算書は受け取っても、肝心の報告書は突き返してよこした。そして、蝦夷地の件は終了したとして普請役の解職に踏み切り、以後のことは我関せずの態度を取って、変えようともしなかった。

 佐藤玄六郎も、山口鉄五郎も、持って行き場のない怒りがこみ上げてきたものの、「承知いたしました」と返答し、金沢の役宅を辞去するしかなかった。

 

 十一月上旬、普請役の皆川沖右衛門や棹役(さおやく)の北橋新三郎(きたばししんざぶろう)らは、この年の東蝦夷地での任務を終え、蝦夷本島の松前に到着した。松前に残っていた普請役の青嶋俊蔵から示されたのは、組頭金沢安太郎から発せられた江戸表での政変と蝦夷地探索の停止を告げる通達だった。

『先般、松本伊豆守(秀持)殿は公事方に、桑原伊予守(盛員)殿は勝手方へと職務の交替を仰せつけられました。蝦夷地の一件は伊予守殿にお引き渡しとあいなりましたところ、このたび差し止めと決まりました。ただし、当年のその地産物の交易品は、去年同様に江戸へ廻すようにとの仰せでした。
 ……右の件につき、松前志摩守の家来、ならびに苫屋久兵衛のほうにも申し渡しておりますので、そのほうら普請役と下役、その他の者どもは、支障のないよう取り調べが済み次第、早々に江戸へ帰るよう申し伝えます』

 皆川はじめ東蝦夷地にいた新三郎らは、この時初めて田沼意次の老中辞職とそれにともなう勘定奉行松本秀持の職務替え、そして新任の桑原盛員による蝦夷地探索の停止を知った。青嶋と棹役の徳内(とくない)は残務処理のためしばらく松前に残るものの、そのほかの探索隊一行は、船便の都合がつき次第、津軽海峡を渡り陸路で江戸へ帰ることになった。

 青嶋と皆川をはじめ、カラフト探索を行った大石逸平(いっぺい)、ウルップ島まで検分した徳内らの怒りは収まらなかった。青嶋俊蔵らは、蝦夷地を幕府直轄領となし、先住民アイヌの教化と本州からの移民による蝦夷地開拓に活路を見いだしていた。桑原盛員は、それをここで放棄するという。ソウヤ(宗谷)で越冬しこの春に死去した庵原弥六(いはらやろく)らの犠牲はなんだったのか。江戸表では、オロシャの南下による北辺の危機には一切目を向けず、将軍死去を契機に権勢争いごときをやっているに違いなかった。

 北橋新三郎ひとりは、驚きも憤りも感じなかった。上司の佐藤玄六郎ら普請役も、大石や徳内らも、あまりに急ぎ過ぎていると見えた。天明四年の大飢饉における東北の惨状をふまえ、耕地拡大を目論むのはわかるが、蝦夷本島では比較的気候温暖と言われる松前でさえ寒気は尋常なものでなかった。庵原弥六らの死も、先住民の智恵を無視した結果だと思われた。簡単に「本州から移民を」と言うが、庵原たちと同じことが起こるに違いなかった。

 先住民アイヌには、彼らの文化があり、日本人化することが暮らしの向上に結びつくとはとても言えない。蝦夷地探索にしても、先住民がいなければ本島の陸路さえたどれなかった。カラフトに渡った大石やウルップ島まで検分した徳内も、すべて先住民の船に乗って行くしかなかった。思考力や文化に欠けた者がどうして何十里もの航海ができるのか。島々にいたる風の向き、海潮流、季節ごとに変化するそれらのすべてを知っているがゆえに船で渡れるはずである。

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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