◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第3回 前編
七
天明四年(一七八四)五月一日、江戸の町名主がこぞって北町奉行所に呼び出された。
奉行所では、南町奉行の山村信濃守良旺(しなののかみたかあきら)、それに町年寄の喜多村彦右衛門(きたむらひこえもん)らの三名も立ち会い、困窮する江戸の小民へ大坂からの買い上げ米三万石を廉価販売すると申し渡した。
「このたび江戸の身分軽き者に向けて大坂より三万石の米を輸送し、一石あたり銀七十九匁(もんめ)七分の値で販売する。
ただし、店借(たなが)りの者でも暮らし向きの良好の者はもちろん、家屋敷を所有する者は除外する。
例えば、一人の名主が支配する町民数千名がいるとすれば、そのうち家屋敷を持っている者と商売で相応の利徳ある者は除き、貧窮する店借りの者のみを約五百人ほどと見積もって売り渡すこととなる。
このたびの貧民御救済のお気持ちをくれぐれも有り難く心得るよう末端の者までよく申し聞かせるものである」
町奉行からの達しは、悪政が天災に輪をかけ店借りの小民を飢餓へ追いやったことを少しも省みず、例によって御国恩なるものの押しつけをもっぱらにしていた。
確かに大坂からの米三万石が達し通りに売り渡されれば、金一両につき玄米七斗五升二合八勺(しゃく)に当たる糧(かて)が得られることにはなる。銭百文では玄米一升二合七勺が手に入る。餓死を目前にし破れかぶれとなった民の暴動を回避するため「百文で一升以上の米が手に入れば天下泰平」の相場まで、何とか米価を下げようとの措置だった。
芝宇田川町(しばうだがわちょう)の地主、加瀬屋伝次郎(かせやでんじろう)は、家主(いえぬし)の要蔵(ようぞう)からこの達しを知らされた。要蔵は、父親の代から加瀬屋に雇われ、店借り人たちの大家(おおや)として町役人(ちょうやくにん)職務の一切を請け負っていた。数え四十となる要蔵は、律儀な男で我欲少なく、裏店(うらだな)の間借り人たちからもたいそう評判がよかった。
昨年(天明三年)夏に関東周辺での不作を耳にするや、要蔵は機会あるごとに甘蔗(かんしょ)干しや押し麦を買い取り、蔵に貯(たくわ)えて、年明けから困窮する裏店の者たちにただ同然の値で分け与えた。
江戸では、この年春から銭百文で白米五合、ふすまは百文で四升、糠(ぬか)でさえ百文に六升しか得られない状況となっていた。日本橋の本町や伝馬町(てんまちょう)でも麦食や甘蔗飯を常とするほどで、連日のごとく無宿の行き倒れがあちこちで見受けられ、江戸橋あたりには二百人余もの食い詰めた無宿者が着のみ着のまま菰(こも)をかぶって集まっている有様だった。無宿者が野外で火をたくことは堅く禁じられており、飢えと冷えから病死する者があい次いでいた。橋の下で息絶えた者はそのまま川に投げ捨てられた。
夜出歩けば追剝(おいは)ぎにあい、打ちこわしの噂も絶えなかった。店々も早々と戸を閉ざし、暮れ六ツ(午後六時)以後に出歩く者は絶えて久しかった。江戸は前代未聞の商売不振となって諸色(しょしき)商人ののぼりもなく、周辺諸国への繰(く)り綿や木綿、菜種油、酒などの注文も絶えていた。
それにしても、西国(さいごく)筋が豊作であるとの話は耳にしたことがなかった。江戸の貧民のために三万石の米を大坂で買い占め江戸へ廻送すれば、それだけの米が大坂市場から奪われることになる。当然のことながら大坂での米相場は一気に高騰し、今度は関西で困窮する民が増えることは避けられない。幕府の方策は所詮その場しのぎのものでしかなく、依然として幕政を取り仕切る田沼意次(たぬまおきつぐ)への怨嗟(えんさ)の声はやみそうになかった。